apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

彩り-Kazutoshi Sakurai

 先週の金曜日、Mステを見ているとMr. Childrenが登場。アルバムの中の一曲らしいが、歌詞の流れが絶妙だった。

僕のした単純作業が この世界を回り回って
まだ出会ったこともない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に少ないけど 赤黄色緑

今 社会とか世界のどこかで起きる大きな出来事を
取り上げて議論して
少し自分が高尚な自分になれた気がして
世が明けて また小さな庶民

 途中まではどこにでもある様な普通の曲だと感じた。社会や世界を引き合いに出して己の小ささを語るのもミスチルのいつもの作法だろう。
 そしてまた繰り返される。

憧れにはほど遠くって 手を伸ばしても届かなくて
カタログは付箋したまんま ゴミ箱へと捨てるのがオチ
そして些細な生き甲斐は 時に馬鹿馬鹿しく思える
あわてて僕は彩を探す
にじんでいても 金銀紫

なんてことのない作業が この世界を回り回って
何処の誰かも知らない人の笑い声を作ってゆく
そんな些細な生き甲斐が 日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に 増やしていく 水色オレンジ

 日常的な風景が繰り返され、サビに戻る。「出会ったこともない」から「何処の誰かも知らない」に置換される。これで曲が終わるのかと思ったら最後に一ひねりあった。

なんてことのない作業が 回り回り回り回って
今 僕の目の前の人の笑い顔を作ってゆく
そんな確かな生き甲斐は 日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に 頬が染まる 温かなピンク
増やしていく きれいな彩り

 最後に全てが循環している。目に見えなかった「些細な生き甲斐」が、目の前の「確かな生き甲斐」に還元され、社会や世界に着色されいていたものが、最後は人の「頬が染」められる。
 ただMステを見ている時には間奏の言葉の意味が読み取れなかった。

ただいま
おかえり

 自分と誰かの比喩かと思ったが、そうではない様だ。この文章を書いていて気がついたが(鈍い)、帰って来たのは「なんてことのない作業」の結果だろう。この一節をもって詩の循環性を高めているのだ。
 この曲を聴いていて思い浮かんだ世界観はプラネテス。どちらかというとリップのGalaxyがプラネテスに似合っていると思っていたが、この曲はエンディングにもってこいの曲という気がする。

この世に
宇宙の一部じゃないものなんてないのか
オレですらつながっていて
それではじめて 宇宙なのか
ここも宇宙なんだ

ばっばっばっ

 どうやら彼らには理解できない様だ。私が彼らのやり方に合わせる以外方法はないのだろう。仕方のないことだ。彼らの言い分では、社会がコミュニケーション可能なものであり、世界はコミュニケーション不可能なものをあらわしているというが、何とも不便な能力ではないか。今の私には社会も世界もない。しかし彼らとコミュニケーションを図るためだけの能力を獲得することによって、コミュニケーション不能な世界ができあがるなど、あまりにも代償が大き過ぎる気がする。
 「まだ話すことは無理かな?」「無理だね」彼らが私に話かける。馬鹿げた話だが、「無理」なのは彼らの方であるのに、その無理性を考えることもなく、他人に押し付けている。自分にとって「無理」であっても、他人にとっては「無理ではない」ということがわからない様な狭量なものに私は成りたくなり。ましてや事物を「無理」と言い切れる程の無力さを呈したくもない。私は彼らの言っていることも聞こえているし、理解している。それなりの反応はしているが、その「反応」が彼らの言語能力を超えている、もしくは範疇外らしく、コミュニケーションが成立しない。彼らにはそんなことも想像できない様だが、想像できない方が幸せに近付ける人生もあるということを、私は想像したりもする。
 二足歩行することによって脳の発達が促されるらしいが、逆に退行する部分も多かろう。そうしてまた一つ自由を失い、汎用性を得るのか。この種に生まれてしまったからにはその様に成長し生存しいくことが自然なのだろう。それに敢えて逆らうつもりはないが、残念ながら先の様な価値観に染まる気はないので、常識非常識のボーダーラインは曖昧なままにしておこう。ミルクの温度の様なものかもしれない。
 こうして結局のところ彼らと同じ言語で彼らを批判すること自体、既に馬鹿馬鹿しいことであることは間違いない。何より馬鹿馬鹿しいと気が付きながら日々を過ごすことほど馬鹿馬鹿しいこともない。それならばやはり全ては曖昧なまんまが納まりが良い。
 「ばっばっばっ」と発してみる。「パパ、パパ」と彼らは私の発話を直そうとする。残念ながら私は呼んでいるわけではない。曖昧に、ただ曖昧に言葉を発しているだけだ。それを一つの価値に強制しようという行為がやはり浅ましく馬鹿馬鹿しく思え、笑って誤魔化す以外に方法が思い付かない。こういう時は眠るのが良い。眠ると夢を見る。この夢に怯えた作家がいたが、未だに言語化する術を知らない私には、夢はそれほど恐怖ではない。どちらかと言えば寛容だ。そこに無理性は存在しない。他人の強制を受けない。私の脳が規定されていない分、そこに自由がある。「無理だね」などと人生をさも知っているかの様にほざくものも居ない。それで良い。それが良い。さっさと眠ることにしよう。チュッチュをくわえてしまえば口を開く必要もない。便利な道具だ。彼らも時にはチュッチュをくわえて、無駄口を慎んだら良い。さ、いい加減もう寝よう。