apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

アニメと漫画とゲームと現実と仮想と

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04/3/16
現代の若者はゲームやアニメによって大変悪い影響を受け現実とバーチャルの区別が着かなくなってしまった

 確かに現代はリアルとバーチャルの区別が前世代よりもつかない世代かもしれないが、問題はそれ以上でリアルが何であるかわからないと言った方が良いかもしれない。つまりバーチャルを知るにはリアルを知っていなければならない。僕は1970年代後半の生まれで80年代に幼少期を過ごしている。東浩紀の定義を借りればポストモダン第1期で、大きな物語の凋落と虚構の時代。僕の準拠集団は家族ではなかったし、父親にも準拠点が見いだせない。なぜならば、彼らのリアルは僕のリアルでは無かったし、僕の世界に彼らの価値観は意味のないものばかりだったからだ。
 例えば猿岩石やあいのり、沢木耕太郎小林紀晴。青年は荒野をめざすでも良い。バックパッカーに見せられて旅行する若者は多い。大概にしてメディアは操作されているから、現地に赴けば想像以上の現実にひれ伏す物も多い。それはインドにしても、イタリアにしても同じだ。日本ではリアルだったことは海外に出ればバーチャルになり得る。現代日本特有の問題、リアルーバーチャル、はそこにある。
 日本では文化としてアニメ、漫画、ゲームが発展している。これに因って影響を受ける子供たちが多いとされるが、これらを取り除いて違うメディアを与えたとしても結果としては同じではなかろうか。規制をするにしても今の日本では結局はアニメ、漫画、ゲームは子供のものという意識があって、そこにアダルトとキッズの枠組みを与えるのは困難だろう。次世代ゲーム登場期にはゲームオープニング場面に年齢制限が付加されたものの、それが実質的な年齢制限にはなっていない。ゲームセンターにしてもそうだ。制服を来ていればまだしも、深夜に私服で入場しても未成年が追い出されることはない。
 過度のイメージが未成熟の思考に悪影響を与えるとするならば、昨今のハリウッド映画はまず成人向けになるのではないか。爆発に銃器、殺人、テロ、あるのは曲がった愛国心。もしある子供がハイジとキャンディキャンディ、リボンと日本の昔話、オセロと将棋だけで育ったら。70年代にはきっと平均的かもしれない。だけどそんな子供が明日成人ですといわれ、今現在存在している全てのソースを見る事が許されるようになったならば、逆にリアルとバーチャルの落差に潰されるのではないか。これはもちろん極端かもしれないけれど犯罪から社会を構築している現代には、その犯罪性を隠すことが善だとは僕は考えていない。
 1家庭が子供に対して見るべきもの読むべきものするべきものを規制したとしても、学校に行けばクラスメイトと情報の並列化が起こる。自分の家に無くても、他の子供たちは知っているし持ってもいる。そしてまた自宅に帰れば、親には自分が知らないフリをするかもしれない。それは逆に子供の成長を妨げ、親に対しての不信感にもなる。もし子供が善意で知らないフリを続けるのであればそれはもう子供ではない。
 僕にとってこれらの問題は子供ではなく、それを育てる側にあると考えている。酒鬼薔薇にしても、言ってしまえば僕が彼と同年代だったころ、クラスで誰かが死なないかとも考えていた。あわよくば誰かが担任を刺さないかとも。それ程、教育者と被教育者の情報の伝達は成り立っていない。それはつまり育ってきた環境があまりにも違い過ぎるという分かり切った原因なのだけれど。それがポストモダンであって、モダン期に育った人々と格差があるのは当然だろう。もっと言ってしまえば僕らの持っている情報と、ある時期を境にして成熟した人々との情報や原風景に差違があり過ぎる。
 僕はまさにアニメ、漫画、ゲームに囲まれて育ってきたけれど、当然のように前世代はそんな情報はないし摂取しようともしない。摂取しようとする人はいてもマイノリティだ。ある意味バーチャルばかりで育ってきたのだけれど、そのバーチャルの中に僕はリアルを感じる。もう日本のリアルには本当のリアルが喪失してしまって、歴然とした倫理観を持った教育者が少数になった今は、それらを構築する材料になっているのは結局はバーチャルなのではないか。現にテロも未成年も犯罪も起こっている。米国にしたって銃の乱射事件は低年齢化しているし、そういった事象を前世代が的確に判断できないのであれば結局は当事者である現世代がリアルに受け取らなければならないのではないか。要するに子供の育成過程において必要な情報の取捨選択は、育てる側ではなくて育つ自分たちでしなければならない時代にあるのではないだろうか。
 そうするにはそれだけのものを見て読んでしていなければならない。それが時代に対応するということであって、結果としてバーチャルに埋もれる者もいれば、リアルを見いだす者もいるということだろう。また海外に出てバーチャルしか知らなかった者がリアルに直面したとしてもある程度の想像力が働けば対処できる。バーチャルが想像力を退行させるというけれど、それは捉え方の問題であってリアルは想像力を侵食しないのか。もちろん文学や社会関係に重点を置いて育ってくる人間も多いだろうし、今ではパソコンもあるしTVも多チャンネル化している。僕が育った環境とはまるで情報の発達度が違うけれど彼らが想像力を欠いていると思えない。
 つまりアニメ、漫画、ゲームの過度のイメージが子供たちに悪影響を及ぼすことはあったとしても、それは成長においては修正の利く振れ幅であって、現代日本の問題はその対処法にあると僕は考える。被教育者はバーチャルで育ちながら教育者は彼らだけのリアルで説こうとする。そこに矛盾が生じて針が振り切る。新しい形の犯罪が生まれれば新しい法律ができるように、新しいバーチャルが生まれればそれに見合ったリアルも生まれてくる。仮想は結局、人間の想像力の一部分であって、現実にしても結局は準拠していたい世界の一面でしかないのだから。井戸の中の蛙が全て大海に飲み込まれないように、井戸に居ながらにして世界を想像することは可能だろう。