apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

夢ねぇ

 ペルージャでインターネットをする場合、internet pointという日本でいうところのネットカフェにiBookを持って行ってネットに繋げることになる。イタリア人の学生もほとんどの場合、そういうところでネットをしている。各家庭に回線を引くのは面倒(イタリア人の仕事は遅い上に、まだ日本ほど安くはない)だし、以前書いたようにインターネットというものがイタリアでは未だに民衆に根づいていないからだろう。
 長々とネットに繋げられないので、日々のニュース(日本の)なんかは色々なメールマガジンに登録して自宅に帰ってから読むようにしている。そんなメールマガジンの中に毎日一冊、新刊の本を紹介するメルマガがあるのだが、決まって紹介される本が啓発ものばかり。「〜に成功する方法」とか「リーダーシップは〜」というものが多い。僕は本屋に行くと素通りする棚がある。それは啓発系とエッセイ本の棚。マニュアル本とかも読まない。「必ず成功する〜」とかいう本を買って成功した人っているのだろうか。
 「私は仕事をしながら、夢を諦めず叶えました」と言われ、その過程を延々と本にされても困る。それが売れてしまうような国も困る。そして「この本に感動しました」と薦められた場合、何よりもリアクションに困る。夢ってそんなに現実離れしているようなものだろうか。日本人はどうも夢を神聖視している傾向がある。夢を追いかけるとか、夢を叶えるとか、現実を受け入れて夢を捨てるとか。
 人間にはそれぞれの能力があって、それに基づいて職業がある。能力が無ければ職にはつけないのかと言われればそれも違って、別段特別な技能がなくても日本では職に就ける。小学校高学年にでも成れば、将来成りたい職業も現実的になってくる。現実的になってくるってのは、例えば低学年では「将来はスーパーマリオに成りたい」と言っていた子が、「将来はゲームを作りたい」といった風に。つまり既に現実に職業として存在していて、誰かが成し遂げていることを選ぶようになる。
 それでも現実的に就職する先は違ったり、今ある自分に違和感を感じて「夢」なんて言葉を使いたがる。使いたがる割にはやりたいことをやっている人間に対して「現実的」じゃないなんて批判をする。宝くじを当てたいとか、スーパーマリオに成りたいとか、自分の力の及ばない所の話しならばとにかく、自分の人生くらい夢とか現実とか言い訳しないで生きてもらいたい。他人の成功話を聞いて、自分もなんて思うような人生はどうかと思う。
 ドラクエと一緒でスライムも倒せない勇者は、ゾーマも倒せない。地道にレベルをあげられない人間は前には進めない。今ある状況が現実であって、到達点が夢というものであるならば、ただそれに向かえば良いだけの話しで、「やっぱり現実は厳しいよな」とか言われても個々の現実は違うのでわからない。
 将来成りたいものは、自分の望む未来なのだから、ただ単純に成れば良いだけの話し。言い訳をするからややこしくなる。自分の望む未来を手に入れることが難しい国が豊かだとも思えない。ここペルージャには海外から様々な国の人たちが夢や希望を抱いて留学をしてくる。彼らにとって、それらは現実で、ギリギリ到達可能である未来だからこそ、海を渡ってくる。もちろん例外はあるし、無計画の人間だっている。それでも日本のように、夢に向かって進む人間を笑う者もいなければ、邪魔する者もいない。それは彼らが夢の叶え方を誰に教わるでもなく知っているからだろう。