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最近は写真日記。

語学の習い方

 習うより慣れよと言われて高校2年終了後、オーストラリアに語学留学した。それまでの僕の英語の成績は10段階で5か6。高校受験で足を引っ張ったのは英語で、3教科受験で一番成績が低かった。数学の成績が一番良かったが、高校2年からのクラス分以来理数系の授業は受けていない。ちなみに進んだクラスは英語クラス。僕の英語の成績はそのクラスで底辺に位置していた。
 英語クラスを選んだ理由は至極安直で、世界考古をやる上で語学と世界史は外せないと思ったからだ。英語を早い時期から自分のものにしたくて留学を決めた。留学を決めたのが2年に上がった当初で、高校から許可が出たのがその1年後。今考えても全てにおいて不条理な高校だったと思う。私費留学で高校は休学、つまりは留年になるにも関わらず「英語の成績が悪いのに留学の許可は出せない」と何度も職員室に呼ばれたことを覚えている。
 オーストラリアではホームステイ。着いた初日はまるでコミュニケーションがとれず、それまで学んできた中学高校の英語がまるで意味のないものだと痛感した。日本からは文法書などを持って行かなかったため、英語の文法書、英英辞書、英和辞書で基礎の基礎から英語を勉強し直した。授業中は英和、和英の辞書は禁止だったし、日本人はクラスに僕だけだったので、嫌でも英語を話さなければならなかった。
 その時に僕なりに習得した語学の勉強方法は、書いて書いて、とにかく書いてというものだった。書くためには、アウトプットするためには、読まなければならない。つまりインプットである。また自分がアウトプットしたものを、インプットし直して、またアウトプットを繰り返す。口語は生活をしていれば覚える。表現や使う言葉も限られているし、人の言うことをオウムのように繰り返していれば音として覚える。
 しかし文章を書くということはそうはいかない。文語に関しては、それなりに文章を読んでいなければならない。文語を知れば口語での表現もより自然になる。自分で好きなように文章を書けるようになれば、他人とのコミュニケーションに困ることはない。僕らの時代の英語の学び方は、穴埋めが基本だった。動詞の活用、時制や前置詞、単語など、コミュニケーション重視と言われながらも結局は受験英語だった。受験英語とは、日本の受験形式に合わせた英語の勉強法であって、その内容のことではない。要するにテストを意識した勉強法であって、語学の勉強法ではない。
 「多国語を知らない者は、自国語を解することはない」と言われるように、言語は比較して初めて理解できるものだ。それは言語学的な見地と習得法の違いに因る。自分がどのように日本語を習得して、日本語を基準にしてどのようにアイデンティティを形成しているのか。それを理解するための手っ取り早い方法は留学である。他国で0から他言語を学ぶ時に自ずとその答えが見えてくる。母国語を疎かにしていた人間は、他国語もそれ以上には延びないというのが僕の持論である。