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最近は写真日記。

学問とビジネスと

 イタリアの大学に通っていて、素晴らしいと思える点は、学問の捉え方がまるで日本と違うところだ。日本で大学生をしていても、「早く社会に出て、一人前になりなさい」と大学生の社会的地位は認められていない。イタリアでは大学生や学問に携わる者は、その地位が認められていて、間違っても「早く就職しなさい」なんてことは言われない。もちろんダラダラ大学生を続ける人間も居て、勉強を全くしない者も居るが、日本に較べれば可愛いものである。
 「学生は良い」というのは、一体どういった了見で言っているのかわからない。大抵そういう人間は、自分自身学生時代に人任せに生きて、就職して初めてアイデンティティを確立した人が多い。「社会に出ればわかる」なんて台詞を吐く人間もそうだろう。ビジネスを興す人間は、自分の会社のために、人生を共にする会社のために、休み無く考え続けるだろう。そこに定休日は存在しない。24時間いつでも会社のことを考え、自分のことを考え続ける。現状維持を求める企業が衰退するように、試行錯誤しなければ先に進めない。それは学問でも同じだ。学問に携わっていれば、パーフェクトな休暇なんて死ぬまで存在しない。
 日本では働いて賃金を得ている人間の方が社会的に認められる。フリーター派遣社員契約社員というカテゴライズ*1が存在するように、実際の年収や能力に関係なく社会的ラベルだけで振り分けられる。それを過去の年功序列や終身雇用の所為にして教育者は言い訳をするが、本質はそこにはない。
 イタリアでは奨学金制度が充実していて、日本のように返済しなければいけないセコイ制度とは違う。成績や親の年収など、書類は色々と面倒だが、ペルージャ大学では食堂や学生寮、授業料など全てが無料になる。外国人である僕でも、奨学金をもらうことができる。それだけ学問に対して国や州、国民が重要性を認め、世界的規模で学生を受け入れ、学問というものを蔑ろにしていない。もちろんその反面ヨーロッパ至上主義的な一面があるのだろうが、学問のレベルを高めていこうという意識は日本の一般市民レベルではまずみられない。
 日本で学問が根づかない理由はそこにある。GNPで成長しても、国民の意識はまるで昭和だ。自分たちが裕福になること、幸せになることしか見えていない。要するに貧しいのだ。イタリアはGNP成長率が低くても、国民全体に教養と労働の大切さが根づき、働く者も学問に携わる者も、そのアイデンティティを持って国や世界の未来を考える姿勢が身に付いている。ビジネスをする者、学問に携わる者の間に優劣の差はない。学者が発見や発明をしなければ、新しいビジネスは生まれない。商工業が発達しなければ国も発展しない。学問を、学生を蔑ろにするということは、その国の未来を蔑ろにするということだ。ノーベル賞を取っても、国からのバックアップが望めないような国は、未来どころか現在でさえ危ういだろう。

*1:労働基準法の契約の分類ではなく、社会的認知上での分類