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最近は写真日記。

筆記と口頭、受験と卒験

 id:KEN_NAITOさんの「教育?」id:KEN_NAITO:20041008に関連した話しである。僕は以前「情報もしくはインターネット教育」id:ain_ed:20040610「子育ての資質」id:ain_ed:20040611「少年情報探偵団(仮称)って何?」id:ain_ed:20040612では僕より下の世代の状態とその親の世代の現状に触れ、そして「アニメと漫画とゲームと現実と仮想と」id:ain_ed:20040319では教育を受ける側と教育者側との断絶を書いた。
 日本に学問の意識が根付かない一因としてKENさんは

「受験対策としてのツメコミ教育」

 に着目して、

よーするに受験のためという名目で, 知りたくもないことをムリヤリ憶えさせられるので, 大学までに学問がイヤになってしまう. 勉強=ツマラナイ. 学問=ヤクニタタナイ. そんな意識が根付いてしまう. 

 結果として以上の様な状態に陥るとしている。日本では受験こそが出世の第一歩である。今でも塾に通う子供が多いということは、「うちは別に良い学校に入ってもらわなくても良いんですよ。子供が楽しければ」なんて言いながらも、結局は親の意識から受験と出世が消えていない。
 イタリアでもツメコミ教育は見られる。中高生は午前は学校に通い、午後帰宅して宿題をする。その宿題の量がかなりのものらしく、朝通学時間にバスに乗ると彼らは必死でノートを広げている。友人達に聞いても、高校の頃は暗記の毎日だったそうだ。だとしたら日本の学校教育とあまり大差がない。もちろんイタリア人は受験のために塾に通うなんてことはないので、その点はかなり異なる。
 「受験のため」というのが、彼らイタリア人には理解できないらしい。イタリアでは工学部や医学部以外では特に難しい入学試験はない。それよりも彼らにとっての1番の問題は高校卒業試験であり、そのためにツメコミツメコミ、できる限りカンニングペーパーを作るらしい。これもテストに対しての勉強方法は日本とあまり大差がない。差があるのは入試に重点を置くか、卒業試験に重点を置くかである。
 また試験形態もかなりの差違が見られる。日本の場合ツメコミ、インプットした内容を全て出し切る訳ではなく、筆記で穴埋め問題を解くだけである。僕が日本で直面した口頭試験など、高校入学次の簡易面接と卒論口頭試験だけである。それがイタリアに来た途端、たったの1年半で受けた口頭試験は数知れず。
 口頭試験の場合、自分が勉強したものがダイレクトに反映される。また自分の論理構成次第で学んだことを全てアウトプットすることができる。日本の穴埋め問題では「テスト範囲」だけを集中的に学ぶことを憶え、「テスト範囲外」は要らないもの扱いである。これも口頭試験では、基本的に「テスト範囲」が提示されるが、人と対話することにおいて「テスト範囲外」が通用するわけがない。そしてその対話に依って受験者はまた新たなことを学ぶという循環関係が強い。それはコミュニケーションと同様である。
 またKENさんの言う様に、日本では「受験」に比重が置かれ過ぎていて「学ぶ」ことが蔑ろにされている。本当はスタート地点であるはずの「受験」が、いつの間にか約束の地の入り口を示す様になってしまった。欧米の様に「卒業」に重きを置けば、少しは日本の「学ぶ」という意識が変化するのではなかろうか。そうすれば「何のために自分は学ぶのか」ということが明確になる。
 入学は卒業までの安定した将来を示してくれるが、卒業は新しい道を示してくれる。その道は希望に満ちて、可能性もまた未知である、なんてことを言っている場合ではない。日本の現代教育は正に高度経済成長を体現している様である。生涯教育の折れ線グラフを描いたとすれば、日本はスタートから一気に急成長を遂げ、後は緩やかに下る。欧米教育は日本に比べれば、一生緩やかな昇り坂の様相を呈す。
 受験は安定した将来の為ではない。より良い学習環境を得るためである。学習環境とは学ぶためのものであり、ステイタス化され商品化されるものではない。日本の教育制度に決定的に欠落しているのは口頭試験、そして入試よりも難度の高い卒業試験である。そうすれば少しは勉強=受験→出世=安定した人生という意識が壊れ、勉強=より良い暮らしへの新たな視点⇔仕事⇔学問*1といった様な意識が生まれるのかもしれない。いい加減日本でも「学生とは人生の縮図の様に厳しい」と謳われても良い頃だと思うが、まるでそんな雰囲気が感じられない。いつまで学問を蔑ろにするつもりなのだろうか。

*1:一つの例