apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

そして、宇宙へ

 宇宙と書いて「そら」と読んでしまう人間は少なくないはず。高校の下校時に「超良い天気。あれが宇宙の色だよね」と笑った子がいた。それは期末テストも終わり、冬休みに入る時期だった。他の友人達は「さみぃだけじゃね。肉まん食べようよ」と、どうでも良さそうだったが、僕は思わず空を見上げてしまった。正午を少し過ぎた時間で、空には雲一つ無い、一面真っ青なカラーで塗りつぶされていた。
 オーストラリアで見た空の色は今でも憶えている。あそこでは雲一つ無い快晴は、日常茶飯事だった。日本の様な高層ビル群も無い。目に映る世界、その半分以上が空だった。日本の空の様に霞んだ青では無い。存在感のある青。今にでも掴まえられそうな色だった。
 「宇宙の色」と言われて、僕はその空を思い出していた。いつも多摩川から吹く冷たい風も無く、昇り切った太陽の光は暖かい。お昼時でも、人通りは少なく、ランドセルを背負った小学生がサッカーボールを転がしながら下校していた。
 それから10年が過ぎようとしている。僕は今イタリアの空の下で生活している。当時は既に自分の道が見えていた。あの時に描いた未来に僕は立っているけれど、自分に憤りを感じる程成長していない。歩く道は合っている。それは自分で決めたものだから。ただそこに在る自分はまだ、あの時に想像した自分よりもほど遠い。
 YO-KINGは「青空は遠くから見ているから、近づけば近づくほど青空じゃない」とCOSMOSの中で歌った。きっと人生もそんな様なものだ。僕らが見上げているものと、そこに立って始めて見えるものは、本質が変わらなくてもカラーが変わってしまう。普遍的に、意識せずに存在を感じられるからこそ、見落としてしまうものが山ほどある。本当は見えていたものが見えなくなることがある。
 本当は空を見上げなくても、青空を感じられるのだ。それは村上龍が表現した「限りなく透明に近いブルー」の様に。空は高い所にはない。宇宙も人間を試したりはしない。青空でも宇宙では変わらず星が瞬く様に、本当はそこに在るものが、ただ僕らには見えないだけなのだ。10年という月日を経て、きっと僕はあの頃の空に居る。今僕が見上げている空の下に、10年後もまた僕を見出せたら、何も言うことはない。僕だけの宇宙を手に入れられたら、僕はそれで良い。
 そんなロマンチストぶりを発揮してみる。