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最近は写真日記。

階級社会

 渡瀬変さんid:yasai似非と現実の日記、「[日記]好きでもない仕事・歯車の矜持」の「消費での自己実現」にこんな言葉があった。

〜どこかのブログにこんなようなことが書いてあった。

階級というものがすでに存在している外国ではブランド品は本当にごく一部の人しか買わないのであまり売れない。だが日本のように階級というものがあいまいな国では、ブランド品を持つことで階級をしめそうとする人たちが多く、結果として某ブランドの売り上げの×割は日本が占める、といった按配だ、と。

本当のところ日本も階級社会だとは私は思っているのだが、一応「ないこと」に建前上はなっている。一億総中流化なんて嘘つけと思うんだが、まあそういうことになっているのでフラストレーションが溜まる人もいるんだろう。

 僕は階級まではいかないのだが、「貴族」と「労働者」という表現を最近良く用いる。kojiさんに「こういう考えってちょっとアレですかねぇ」と話したのはほんの2ヶ月前くらいだったかと思う。「ニート問題を意識してるんでしょう?」と突っ込まれたが、まだ自分の中ではまるで整理できていないし、前述の2つのキーワードも適確では無いのは確かである。
 前者は「ニートだろうが学生だろうが、職に就いていようが、現実的に代々の財産で全然食いつないでいける人」例えばペルージャであれば、大家の息子は働く必要も無い。外国人に高い家賃で2部屋くらい貸していれば、生活はできる。
 後者は「親からのバックアップの有無に関わらず、働き納税し、経済的自立を根本に存在価値を見出す人」例えば親は経済的援助を惜しまないが、社会への参加=成人、もしくは人間の義務と考えており、ニートの様な生活が理解できない人。
 もちろん「自分の中ではまるで整理できていない」ので、仮に2つの言葉を今整理できている範囲で説明してみた。
 インドに行った時のことを思い出す。未だにカースト制度は残っていて、リキシャの漕ぎ手は「これ以上は進めないから。私には入れないから」と建物の前で待っていたりする。バラナシで道に迷った時も、綺麗な格好をしたインド人学生に助けてもらった。「下の者たちは、いつもああなんだよ」「英語、上手いですね」「ああ、僕は米国に留学していたから」「何を学んで?」「プログラムだよ」等と話しをしながら、道案内をしてもらった。それまで日本人と見るや押し売りをしていたインド人達は、その学生と歩いている間はまるで寄りつかなかった。
 イタリアで出会ったネパール人もロイヤルの1人だった。米国に留学後、イタリアに来て、親の金で遊び呆けている。今のところはニートと何も変わらないのだが、「後ろめたい」とは一切思っていない。「帰ったら嫌でもやることはあるし、親に呼び戻されるまではやりたいようにやるよ。かといって、別に働かないといけないわけじゃないんだけれど」と彼は笑っていた。
 階級がはっきりしているからこそ、そういうことを言えるのだろうか。日本人でももちろん、同様の台詞を言う人はいるが、実際日本社会の重圧に耐え切れなくなったりする様だ。
 なんて、思いっきり中途半端だけれど、最近のテーマは貴族と労働者だったり。