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最近は写真日記。

コーチ・カーター:COACH CARTER

 イタリアからの帰りの機内にて観賞。他の映画にはまるで興味を抱かず、結局、この作品一本だけ見て寝た。やはりバスケットを題材にしている映画ならば見ないわけにはいかない。

「この街には神なんていない」といわれたストリート。犯罪と隣り合わせで生きる高校生たちは、自分の力で将来を切り開く術さえ知らなかった。バスケットボールを通して「希望」という言葉を教えてくれたコーチに出逢うまでは…。「コーチ・カーター」は、99年にハイスクールのバスケットボール・チームで実際に起こり、アメリカ中に波紋を投げかけた出来事を映像化した奇跡と感動の物語である。

大きな問題を抱えているリッチモンド高バスケットボール・チームのコーチに就任したカーターは、「悪い流れを変えたい」という強い信念を抱いていた。それはプレイの向上だけではなく、若者たちに生きていく力をつけさせること。そのために彼は選手と契約を結ぶ。「それを守らなければゲームに出る資格はない!」ーやがてチームは連勝を続けていたが、約束を守れない選手たちに対し、彼はコートの閉鎖という手段に訴える。いつか自分の真意が理解されることを信じて…。

 コーチ・カーターオフィシャルHPより。
 その契約とは以下の3つのものである。

ルール1:学業で、決められた点数以上の成績を収めること。
ルール2:授業にはすべて出席し、一番前の席に座ること。
ルール3:試合の日には上着とネクタイを着用すること。

 物語は至ってシンプルである。スラムダンク三井寿キャラばかりのチームを想像すればいい。麻薬、殺し何でもありの学生達の日常の中で、バスケットだけは、否、バスケットしか真に打ち込むことができない。今までのスポーツ映画であれば、「他のものは何でも良いが、とにかくそれだけはやり続けろ」という思想が根底にあるものが多かったが、この作品は少し違う。
 学生達の親の考え方は「勉強はできないが、バスケットはできる」「バスケットしか子供にはできないから」「うちの子供からバスケットを取り上げたら、何も残らない」というものである。しかしコーチ・カーターは違う。「バスケットしか無い、というその思いが、いつか子供たちを滅ぼすことになる」と子供たちとその親と対立する。
 カーターは言う。「この高校を卒業するものは半分にも満たない。その内、アフリカ系に至ってはごく僅かしか真っ当な仕事に就けない。大半のものは犯罪に走り、逮捕され獄中暮らしをするか、もしくは殺されるか、人生を台無しにしている。君たちにしてもらった3つの契約。この3つが守れない限り、君たちは社会に出てもその社会のルールを守れない。バスケットのプロになったとしても、契約が守れなければプレイできない。君たちがどれだけバスケットを愛しているのかはわからない。ただ愛しているのであれば、そのためだったら何でもできるはずだ。できないのであれば、バスケットをやめろ」と。
 子供や親の視点が短期的なものに比べ、カーターの視点は長期的なものである。子供と親は「今、バスケができればそれで良い」という考えであり、カーターの場合は「バスケを愛しているのであれば、生きていれば、バスケに一生携わっていくことができる」というものである。僕の場合、前者は恋であり、後者が愛にあたる。つまりカーターの示す「愛」は、僕の感じている「愛」に近く、どれだけカーターがバスケットを愛しているか、それが良く感じられた。
 一つの映画としてみると、物語がシンプル過ぎて、アッと驚くようなこともなく、ただ淡々と物語は進行していく。演出もわかりやすく、先読みもしやすい。これがバスケットを題材にした映画でなければ、僕はまるで楽しめなかっただろう。そういう意味では、バスケットに携わった人や、スラムダンクで一喜一憂した人には、受け入れやすい作品かと思う。
 気になるカーターの練習メニューであるが、僕の高校バスケ部の様に、ただただ走らせる。ディフェンス練習は兎に角反復。オフェンスにはそれ程力を入れない。「走れないものにバスケットは教えられない」というのは、やはりバスケットを教える側としては当然の考えだろう。気になったのは、シャトルランが自殺ダッシュという名前だったことと、しかも全然ダッシュじゃなかったこと。シャトルランはやっぱりヒーヒー言いながら、手を抜かないで、笑う余裕もないくらいじゃないと意味がない。

コーチ・カーター オフィシャルHP
http://www.cc-movie.jp/main/home.html