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最近は写真日記。

お見送り

 成田空港の発着掲示板の下で、留学する娘を見送る家族や友人がいた。僕はチェックインが早かったので、ソファーに座って時間を持て余していたのだが、17歳の時、オーストラリアに留学した日のことを思い出した。その時、見送りに来てくれたのは彼女と2人の幼なじみ、それと母方の祖父母と叔母と叔父だった。両親は一緒にオーストラリアに行ったので見送られた側だった。僕らは普通に話をして、写真を撮って「それじゃ行ってくるね」と言って手を振ったのだった。残念ながら涙も何もない。
 空港で良く目にするのが涙のお別れである。今回のその家族も、本人、家族、友人共々、号泣気味である。僕はそういう状況に対して少し理解に苦しむ。僕は見送られるのが苦手なので、いつも断っているが、オーストラリア以降では、イタリアに初めて留学した時にも友人に見送られた経験がある。前日に友人数人に「明日行くから」という話を聞いていたが、成田に着くと10人程いて驚いた。結局かまっていられる余裕もなかったので、写真を撮って、小ダルマをもらい、やっぱり「それじゃ」とか行って、ガラス窓に息を吹きかけて、そこにま○ことか悪戯書きをして別れた。
 多分根本的に違うのは、まず卒業式で泣いたことがない。場が無くなっても会いたい人間にいつでも会えるのに、感極まって涙を流す心理はやはり理解し難い。確かにその場所で同じように会うことは無くなっても、場や人間がいなくなるわけではないのだ。僕は一期一会で諸行無常だと思っているから、その瞬間毎になるべく覚悟をする様にしている。悪い癖かもしれないけれど、楽しい、幸せだと感じる瞬間にも並行的に最悪の状況も想像している。想像さえしていれば、それが現実になった時に対処のしようがある。
 だからこそ、自分で決め、自分で行動した結果、家族や友人と決別することになっても涙を流すことができないのだ。そこにセンチメンタリズムを感じない。別に「泣くくらいなら留学するなよ」と突き放したいわけではないが、できればそこは泣くという感情の表現ではなく、笑うという表現の方がしっくりくる。かといって泣くこと自体が感情の表現においてマイナスでもプラスでもないのだけれど、そういう場合の涙というのは安直に思えて仕方ないのだ。例えば葬式には涙、みたいな。残念ながら僕は身内だろうが友人だろうが、葬式の場で涙を流したことがないので、これもやはり理解し難い。
 つまりは、簡単に言ってしまえば、「人として泣かなければおかしい」という感覚に違和感を感じてしまうのである。そう考えて見ても、語学留学で半年とか1年とかのお別れで涙のお別れというのもやっぱりおかしな感じなのである。僕はその状況でどうやったら泣けるだろうか。人間て難しい。というより、「自分の感じている感情が、人間誰しもが感じる感情だと何の疑いもない人間」とは話していてズレを感じるのは、僕はそういった人々に「人間」として認められていないということなのだろうか。普通とか常識的感情とか、何の疑いもなく、すり込みやバイアスに対して盲目になるのは恐いことなんだと感じた。自分が「感じている」のか、それともそう「感じさせられている」のか。「俺・私がそう思っているんだから」の裏側にあるその「思っている」過程を明らかにして欲しいのである。