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最近は写真日記。

親離れと子離れと

 内田樹の研究室:2ちゃんねると子育てより。

苦役でありかつ至福であるような経験。
もっとも人間的な経験はたいていそういう質のものである。
親の仕事の目的は、子どもが「親を必要としなくなる」ことである。
自分の存在理由を消去するために全力を尽くす。
そのような仕事だけが真に人間的な仕事である。
医者の理想は「病人がいないので、医者がもう必要でない世界」の実現である。
警察官の理想は「犯罪者がいないので、警察官がもう必要でない世界」の実現である。
それと同じように親の理想は「子どもが自立してくれたので、親の存在理由がなくなった状態」の達成である。
そういうものである。
いつまでも子どもが親の支援を必要とするような関係を作ろうとする親は、病原菌をばらまく医者や凶悪事件の発生に歓声をあげる警官と同じように、不条理な存在なのである。
子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。
喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。
楽しいか悲しいか、どちらかに片づけてくれないと気分が悪いというようなシンプルマインデッドな人は「人間に向いてない」と私は思う。

 「教える」行為の一種である、大学受験(試験勉強や受験勉強等)もこれに当てはまるだろう。家庭教師をしていて、「勉強を教える」とはどういうことかを自分なりに考えたが、結局のところ「勉強の仕方を教える」ことでしかなかった。それを上手く伝達させるには要するに「やってみせる」というのが一番効率が良いのだろうが、家庭教師をしている以上は、どうやっても「受験生」と同じ目線にはなれない。要するに自分が最善と思われる方法を実践させていくわけだが、根付く子は根付くし、合わない子は、最善ではなくても、合った方法を探すことになる。語学に関していえば、どれだけ時間をかけてでも「辞書をひいて」といっていた。1時間で一つのパラグラフしか進まない時もあったが、「自分で調べる」「自分で見つける」「自分で言葉を選ぶ」という情報の取捨選択のルーチンが大切なのである。もちろん「ルーチン」事体を教えるのではなくて、その「ルーチン」を自分で組める様になることも含んでいる。最初は大変でも、結果として「先生がいなくても、自分でなんとかできる」という自信が付くので、後々応用が効く。
 子育ても、範囲は違くても、根本は同じだろう。与える事は容易だが、大切なことは、どこまでそのフレームを広げてあげられるか、もしくは、そのフレームをどれだけ限定しないであげられるか、ではなかろうか。自分が親から離れる時。そして自分が親になり、子供から離れる時。自分自信も、「親的存在を必要としなくなる」様に成長したいものである。