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最近は写真日記。

準拠集団

 先日高校バスケ部の先輩がお祝いに来てくれた。赤ん坊を見ながら、いつもの様に話が弾む。「今の職場のコミュニティにはあまり興味がないんだよね。何というか、まぁmixiを始めた理由っていうのは、それが一番強くてさ。気の合う人間はそういうところでも築けるだろうって。リアルとかオンラインとかじゃなくて、仕事場は結局仕事場でしかなくて、そこに無理してとけ込む気がないっていうか。以前だったら考えられないんだけれど、仕事を変えて、そういう事ができる様になったっていうか。以前だったら、「自分がいるコミュニティ」以外のコミュニティと繋がるには、それ相応のスキルとか能力が必要だとかって思っていたけれど、全然そういうことは関係ないんだって気がついたんだよね」
 僕がはてなを始めた理由は、正にそういったものだったかもしれない。彼の場合は、例えば、地元と仕事場とコミュニティを使い分けることができるが、海外にいる場合はそうはいかない。リアルでの日本人コミュニティというものが、既に限定されており、浅く関わるか、深く関わるかの2択しかない。この場合、生活をしていく以上「関わらない」という選択肢はかなり困難である。
 僕がイタリアに渡った頃には、僕の趣味に合う人に出会ったことがなかった。少なくとも、「考古学」というカテゴリーで来ている人はいなかった。またアニメや漫画、PCにしても、ある程度の話さえできない状態だったので、何というか、物足りない日々を送っていた。後々にkojiさんや、simon、そしてid:laquilaなど、僕好みのコミュニティが形成されるわけだが、それまでの道のりは本当に遠かった。そのため、簡単に頼れるものは、ネットしかなかった。
 ただチャットや、SNSなど、最初からコミュニティ狙いというのはあまり興味がない。どちらかというと、自分で発信したものに対して、しっかりと反応し、そしてそこから築かれる関係の方に興味があった。これは以前にも書いたが、僕は「選ばれたコミュニティ」よりも、「選んだコミュニティ」に準拠するからである。そのため、ネット上でコミュニティを形成する場合は、最初から「選択できる」状況から入りたかったのだ。
 先日書いたオプティミズム。一つのコミュニティに長く居すぎるために、転職し難いという話があったが、自分でコミュニティを選択するという主体性の背景にオプティミズムがあればこそ、「自分の人生」と思いこんでいるものに執着しなくなるのではなかろうか。
 自分が「選んだ」コミュニティにいるのか、それとも、「選ばれた」コミュニティにいるのか。そして、その中での自分の役割は何なのか。またそのコミュニティ以外に、準拠できるものがあるのか。何よりも、そのコミュニティがなくなった時に自分はどうなるのか。もしくは、コミュニティなどに準拠せずに、内に籠もるのか。バスケ部の先輩が示した様に、そのコミュニティの幅は、スキルや能力ではなく、自分のフレームの幅、もしくは奥行きに比例するのだろう。どれだけ自分のフレームを広げられるかが、コミュニティの幅を広げる術なのかもしれない。