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最近は写真日記。

国民総六歳児

 《内田機の研究室「日本のへそ」で教育を論ず》より。長いのだけれど、そのまま引用。

「学ぶ」とはどういうことか、それを誰も彼らに教えてくれなかったのだから。
どうやって、彼らを再び「学び」に向けて動機づけることができるのか・・・という議論をしている以上、「彼らは『自分探し』の結果、社会的階層降下の道を自己決定したのだから、その社会的劣位は彼らの自己責任において引き受けられねばならない」という物言いに軽々に同意するわけにはゆかない。
子どもたちは「学び」への動機付けを生得的にもっているわけではない。
彼らを「学び」へ導くのは大人たちの責任である。
その責任を放棄して、子どもたちに「自分にとって意味があると思うことだけをしなさい」といえば、子どもたちが「学び」に向かうはずがない。
そんなことをすれば、子どもの幼い頭でも理解できる動機付け(「金」とか「名誉」とか「権力」とか「エロス的愉悦」とか)だけを支えに学校に通い続け(「幼児の動機」を抱え込んだまま大人になる)子どもと、子どもの幼い頭で「おもしろくなさそうだから、やめた」と学びを放棄した子どもの二種類の「成長を止めた子どもたち」が生み出されるだけである。
そうやって子どもたちの成長を止めたのは大人たちである。
子どもたちに自己決定したことの自己責任を問うわけにはゆかない。
子どもたちを自己責任論で切り捨てるよりも、「自分探し」とか「自己決定・自己責任」とかいう有害なイデオロギーを宣布し、いまも宣布し続けている行政やメディアや評論家たちに口をつぐんでもらうことの方が先だろうと私は思う。
「幼児的なモチベーション」で今日本社会の全体が動いている。
「オレ的に面白いか、面白くないか」と「金になるかならないか」というふたつの基準が今の日本人たちの行動を決定するドミナントなモチベーションになっている。
だが、これは「六歳児にもわかるモチベーション」である。
こういうことばを口にする人間は(たとえ実年齢が60歳になっていても)六歳のときから少しも知的に成長していないのである。
だが、本人たちはそのことがわからない(知的に六歳だから)。
学びを忘れた日本人はこうして「国民総六歳児」への道を粛々と歩んでいる。

 学問を続ける人間誰しもが感じる苛立ちだろうか。何度も書いてきたことだが、僕にとっての人間のボーダーラインは「どれだけの快楽を知っているか」である。例えば「飲む打つ買う」など、物欲で満たされてしまうようなものには興味が湧かない。どれだけ「良い」人間でも、どれだけ「ともだち」思いでも、それだけの人間には何の魅力も感じない。なぜなら、「良い」人間であると思えることにも、「ともだち」思いと感じることにも、ある一面のみが強調されただけで、結局のところ単純な物欲に直結している場合が多いからだ。だから「いいやつなんだよ」と紹介されても、それはあまりその人間を紹介していることにはならない。
 話しが逸れた。

「金で買えないものはない」と豪語するグローバリストと、「弱者にも金を分配しろ」と気色ばむ人権派は、教育にかかわる難問は「金でなんとかなる」と信じている点で、双生児のように似ている。
日本の教育は「金になるのか、ならないのか」を問うことだけがリアリズムだと信じてきた「六歳児の大人」たちによって荒廃を続けている。

 日本人は真に貧しいということを理解していない。だから真に富むということも理解できないのだ。最低限の暮らしができるにも関わらず「貧乏」だと感じる。世間にあるものを消費し尽くすことが「贅沢」だと感じている。どれだけちっぽけな世界にいるのだろう。どれだけ世界を限定しているのだろう。そんなものに縛られた人間には成りたくない。「生活レベル」に捕われて、自己を再形成させるなんて愚劣としか言えない。物質社会がもたらすのは生活の利便性であって、幸福性ではない。そういった人間を見る度に、僕はもう口を閉ざす様に、沈黙を持って接する様になってしまったが、その態度は正すべきなのかもしれない。徹底的に批判すること、もしくはそういう姿勢を示すことも、新たなコミュニケーションの形なのかもしれない。

「学ぶ」ということの原理が問われているのである。
「学ぶ」というのは金を出して教育サービスをオン・デマンドで購入することではない。
「学ぶ主体」が「消費主体」として自己規定し、「短期的に確実なリターンが確保されたクレバーな教育投資」をめざす限り、そこにはどのような「ブレークスルー」も到成しない。
ひたすら、「同一者」le M仁e の再生産が続くだけである。

 これは次ぎの日に書かれたものであるが、〈「学ぶ」というのは金を出して教育サービスをオン・デマンドで購入することではない。〉という一文は〈「金で買えないものはない」と豪語するグローバリスト〉を意識しての発言だろう。これを「遊ぶ」に置き換えても良い。ホモ・ルーデンスと称されるように、「遊ぶ」と「学ぶ」は直結している。つまり「どれだけの快楽を知っているか」は、換言すれば「どれだけの遊びを知っているか」もしくは「どれだけの学びを知っているか」ということになる。六歳児の様な「遊び」で快楽を得ている以上、真に「学ぶ」ことはないのだ。物欲に支配され、それを消費することに快楽を感じている間は、結局それを生み出している社会に飼いならされていることに他ならない。つまり社会からドロップアウトしているつもりになっていても、消費社会に居場所を求めて居る限り、本当のドロップアウトにはならないのだ。それは学歴の有無に限らず。中卒で悪事の限りを尽くしたが、成人した今は社会に出て「しっかりやっている」人間と、大卒で新卒採用で就職した人間は結局は同じラインにおり、それは人を語る上での差異にはならない。「経験が違う」と語る人間もいるが、それはスケールの違いでどうとでもいえるものだ。強いていえば生半可な経験に頼り過ぎる経験主義者の方が物事に柔軟に対応できない場合がある。経験も結局は「学ぶ」姿勢あっての経験であり、依拠するためのものではないはずだ。学生が蔑ろにされ、学ぶことさえもなおざりにされていては、このまま本当に国民総六歳児化を待つしかなくなるかもしれない。