apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

1人では開けられない扉があるこの世界で

 「結婚してどう?」という質問を当たり前の様にされる。今までさんざん結婚を批判してきたのだから、それも当然の反応だろう。結婚をして何が変わったのか。結局、具体的な変化と言えば、書類上の記載事項くらいしかない。住所や名前、税金など、それだけのことだ。つまるところ結婚という制度に見出せる現実的な価値はそういうものでしかない。
 ただ所帯を持つという、結婚制度の裏側にある抽象には様々な影響力がある。この裏側は結婚という通過儀礼に含まれるものではなく、その後に展開される家族形成に附随するものだと考えられる。「結婚している」状態というのはそもそも書類上の入籍如何に関わらず、周囲に認知されるかどうかにかかっている。結果として内縁、もしくは事実婚という現象が社会的にも認められている。書類は結局記録資料であって、文脈に関係なく「私たちは結婚しています」という証明書ということになるのだろう。通過儀礼としての結婚が役目を終えるのはその関係が周知の事実になった時であるが、それに伴って「〜家」として、家族形成が始まるのである。ただこの家族形成は必ずしも結婚に直結するものではない。例えば結婚すると離婚することができる。僕の友人で結婚後1週間で離婚したという女性がいたが、結婚に直結する問題としては離婚の方が優先されるだろう。つまり前述の裏側にある抽象的影響力は、結婚しても必ずしも作用するわけではなく、またその影響力は人それぞれ異なるものになるのだろう。
 結婚後、僕が良く言われる言葉は「バランスが良くなった」というものである。以前は「つかみ所がない」「大人なのか子供なのか」「恐い」「偏り過ぎてる」という言葉を良く聞いていたが、最近では「落ち着いた」「雰囲気が良くなった」と言われることが以前に比べて比較的多くなった。先日コメント欄に良く登場するkojiさんに会う機会があったのだが、さすがに上手い表現をしてくれた。「『大人なのか子供なのか』というのは、ain_ed君はそうやって1人で、自分の中でバランスをとってたんでしょう」と。そして「その中での偏り方がやっぱりain_ed君なんでしょう」と。またid:laquilaは「お前、もう学問以外のことは何も考えてないだろう」とも言っていた。
 今まで1人でやってきた分、1人の不自由さを痛感してきた。1人だから自由だ、というのは結局のところ1人分の世界でしかない。自国で生活していれば、少しの不自由さに目を瞑りさえすれば、後の自由を享受できていたが、他国に出て生活すると、その基盤の均衡は崩れ、1人故の不自由さが大きくなる。つまり端的に言えば個人での社会参加よりも、家族での社会参加の方がより自由度が上がる世界がそこにある。そこに見え隠れするものが、裏側にある抽象というものなのだろう。
 結婚してみて、僕がわかったことはそういうことだ。「左翼的に結婚を制度として批判してしまえばそれまでだよ。結婚する人間は馬鹿だと言ってればそれですむ。だけど、結婚が制度化されるまでの文脈がある。何故人は家族を形成するのか。それを知るには、その制度を通過してみなければわからないんだ。批判はそこから始めれば良い」と、僕が結婚する前に言ってた人がいた。その言葉の意味が、今ならばわかる。結婚をして僕の世界は拡がった。換言すれば、1人でいた時より、僕は自由だ。