apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

神さまなんて信じていない僕らのために

 主観的であることは非科学的である、とすれば歴史学どころか真に科学的なことなんてこの世の中にありゃしないんだ。観察者にはいつだって主観が宿る。そしてまた、観察者は観察対象に影響を与え、それまであったあるがままの形を変えてしまったり、観察者のフィルターによって情報は置換される。それが例え数値化という名の近代科学的幻想であっても、数字は結局人間の範疇を超えることはない。つまり数字なんてものは人間が事物を読み解くための方法であって、変換されてしまった時点で結局それはそこまでの意味しかないんだ。何が言いたいかって、要するにこうやって言語化している段階でこぼれ落ちてしまう、もしくは言語化することすらも不可能な事物の色とか匂いとか感触とか姿形とか、五官で感じるべき事物は、結局は削ぎ落されて本当に伝えたいことなんて伝わらない。ましてや五官フレームで感じられる情報量には限界があり過ぎる。言語的転回もまた近代科学の基礎だけれど、それに縛られ過ぎて見落としてるものがあるんだろう。
 「僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ。」そんなニヒリズムには飽きてしまって、僕は僕自身を表現し続ける生き方を選んだんだ。それでも例えば最近の流行りネタの「いじめ自殺連鎖」なんてものには安易に口を開きたくはなかったけれど、要するにあれはどっかの誰かが仕掛けた新内閣崩しのための布石なんだろう。「いじめ」から現代教育の疑問点や教育機関の怠慢まで掘り下げられた。それに今回の教育基本改正案とか豚と献金とか。ただ改正案が衆議院を通過した時点で、これからいじめ自殺関連のニュースは減っていく可能性は高い。どちらにしても、カメラがまわってないところでいじめは繰り返され、いじめを苦にした自殺は減る事はない。「いじめ自殺連鎖」の連鎖感にしても、作為的に見えて仕方がない。いじめに関する意見と、自殺に関する意見と、いじめ自殺に関する意見と、連鎖に関する意見がごちゃまぜになって、結局着地点などなく、この問題は消費されていくのだ。
 自殺する人間は、自殺する人間なんだ。何が「原因」かじゃなく、自殺に意味を見い出している限り、自殺することによって自己を表現する限り、自殺する理由さえあれば、結果は同じだろう。いじめは学級制度が存在する限り無くなりはしない。単位制であれば、減りはするだろうが、問題は生徒に対する教員の割合だ。1クラス35とか30人とか、集団心理を利用した様なクラス編成である限り、そこには必ずそれぞれのキャラクター、そして役割が生まれることになる。それらをロールプレイすることによって、日本人的社会性を養うという方向性が消失しない限りは、もしくは、そういう経験が豊かな人間性を育むという限界性がある内は、いじめも教育の内と捉える他ない。
 「誰か自殺しないかな」そう思う程不条理なところが学校だ。他人の「死」が変化の希望にも見えてしまう、そんな場所だった。僕は口を噤んで、だけど自分を変えることもできずに、結局その社会から逃げ出した。残念ながらそれでも僕は自殺に興味はなかった。別に死んでも悔いはないと思っていたけれど、念のために生きてみた。たったそれだけのことだ。
 この問題が喉元を過ぎれば、今度は格差社会もネタになるのだろう。不況から抜け出し、バブルルネサンスを志向するのであれば、行きつく先は格差だ。経済的にも文化的にもある程度階層化されるのだろう。ただ幸か不幸か階層化された方が民主主義は機能を発揮する方向にある様だ。その興りにしても、発展過程にしても、それらは全て階層化社会の闘争に依ってその機能性が活かされてきたといえる。並列化された愚衆だけでは命取りになるが、混沌となれば逆にバランスは取りやすい。
 「僕には『ある』か『ない』かしかない」相変わらずそれはそうなんだけれど、ファジー要素もそれなりに感じられる様にはなってきた。感じられる様になっただけで、それがメインにはならない。もともとカオスを愛しているが、ファジーも見えるようになっただけなのだろう。極端に表現すればどっちでも良いことが増えた。裏を返せば、精神欲求のハードルが高くなったということだ。
 仕事をする。賃金を得る。労働時間=賃金になっていて、労働力=賃金ではなく、そこに居るだけでお金をもらえるのだから正にタイムイズマネー。ビジネスは素直だから良い。学問は一生かかかっても得るものがないかもしれない。一生を捧げても、他人の数日にも満たない様な結果しか出ないかもしれない。もちろん他人など眼中にないし比較対象にならないのだが、第三者からすればそんなものにしかならない。「役に立つのか」という質問は「役に立たなければ意味が無い」という価値観が根底にあるからなのだろう。ではこの世の中で「役に立つ」だけに生まれたものがあるのだろうか。誰にも迷惑をかけず、誰も傷つけず、誰も犠牲にしない。ましてや「誰」の「役に立つ」のか、「何」の「役に立つ」のか、「役」に「立つ」とはどこまでの範囲なのか。それすらもわからない人間が「役に立つ」と言える自信はどこから来るのかすらわからない。何よりも自分が何かの「役に立っている」という欺瞞が何よりも恐怖だ。
 一つの価値観に執着し、それを他人に強制し、それすらも自覚しない人間が恐い。「〜でなければいけない」ものが人間社会にある様には思えない。もっと単純に言えば共有幻想を押し付ける様な人間には成りたく無い。もっと具体的に言えば、「普通」「常識」「みんな」「誰でも」という言葉でしかその価値基準を見出せない人間にはなりたくない。かといってそれらを「経験」で換言されても同じことなんだけれど。
 言葉の力を信じていたどっかの社員は結局のところ金の力をとった。ジャーナリズム宣言した結果に買収されて、ジャーナリズムとは結局金であることを証明したわけだ。それはそれで認めれば良いだけの話しなのだろう。
 世界がおかしいという人もいれば、美しいという人もいる。変わったという人もいるし、いつまでも変わらないという人もいる。同心円的社会性から抜け出して、世界は自分だという人もいる。世界は広いとか狭いとか、一つとかいう人もいる。それぞれの世界には大なり小なり、物質的精神的差異がある。地球は有限だけれど、世界は無限である。世界を規定するものが何なのか、それがわからない。
 「歴史上の人物が本当にいたかなんてわからないわけでしょ」確かにそうだ。僕も教科書に名前が載っている人間に誰一人として会ったことがない。伝聞とか史料とか、そうやって形成されているだけだ。でも地球が丸いことだって自分の目で見たわけでもないし、地球が青いことだって僕が見たわけではない。ましてや空に上がれば宇宙に届くということだって僕が試したわけでもないのだ。ブラウン管に映っているものが真実かどうかなんてわからない。人づてに聞いたこと、本で読んだこと、情報を伝えるものに価値はなく、そこに価値観を付与するのは結局人間でしかない。それに強いていえば人間の五官なんてあてにならない。それでもそれを「現実」と思えて、歴史を「じゃあ、わからないんだ」で済ませる心理は精神的に健全と言えば健全なのかもしれない。
 要するに合理的かどうかの話しだ。つまりは自分の「理性」に「合」うか、「合」わないか。自分の理性に合わなければ、認められない。合理とはそういうことだ。「キリスト教は合理的である」と言われる。つまり見た事も、会ったこともないイエス・キリストの存在は理性に合うので、彼の教えを拡げた使徒の話しもまた認めることができる、ということだろう。同時代的合理と、マジョリティ合理とでも言えるのか。だとすればマイノリティの歴史はマイノリティのまま残るだけなのだろう。実際理性なんて言葉だって輸入品でしかないのだけれど。
 こんな風に人間の主観と疑似客観は揺れ動く。そのふれ幅がそれぞれの中庸を決める。極端を知らなければ中心は計れない。中心に立った途端に極端は見えなくなる。シーソーの真ん中に立っていても、シーソーは楽しめない。かといって、片側に座っていても、シーソーは遊べない。そこから移動するか、1人でジャンプをするか。
 自分の限界状況はどこなのか。スキルやテクニックではなく、アビリティ、つまり能力はどう変化するのか。ただ振り返ってみると、僕はもう後退していくだけなのかとも感じずにはいられない。二十歳を過ぎてからスキルやテクニックは増えたが能力の飛躍はなかった。もしかしたら今のふれ幅が僕の限界状況なのかもしれない。今在る自分が色々な意味で合理的なのかもしれない。念のために生きた結果の表現体がこれなのかもしれない。
 実のところ、それならそれで、と思う。成りたい自分などない。理想像もない。今の自分に不満足感でいっぱいというわけでもなければ、満足感で満たされているというわけでもない。言葉でいえば、「そう在る自分」しかない。10年前にイメージした自分の延長線上にいるし、10年後もそう在るのだろう。イメージといっても、「今在る自分」というイメージだけれど。そんなイメージも祈りの様なものでしかないのかもしれない。何に祈るのかはわからないし、祈るべき存在は人工物しかないのだけれど、祈るという行為は人間特有の希望なのだと思えば、それはそれで微笑ましい行為だから、まあ良いかと思える。祈るという漢字が女性に基づくというのは限定的だが、この際そんなジェンダーは気にしないでいようとも思う。
 誰に宛てているわけでもないし、アウトプットとインプットの確認作業でもない。どちらかと言うと、今までの記事のコラージュに近いけれど、本当のところはただダラダラと書きたかっただけなのだ。確認作業というよりは整理作業、もしくはこれこそ日記と言える様なものなのだろう。あての無いまま、宛て無く書いたら、結局自分だった、みたいな。