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最近は写真日記。

科学的根拠

 J-CASTニュース:マイナスイオン健康にいい 科学的根拠実はゼロより。

マイナスイオンゲルマニウムが健康にいい。テレビゲームで「ゲーム脳」になる。水に「ありがとう」と言えば綺麗な結晶(氷)ができる。どれも科学的根拠の無い「ニセ科学」であり、それらが蔓延している世の中はおかしいと、2006年12月18日のNHK視点・論点」で大阪大学菊池誠教授が話した。これがネット上でも評判になっている。
菊池教授はまず、ゲルマニウムブレスレットなどゲルマニウムグッズが健康にいいと人気であることをあげ、「健康にいいという科学的根拠は無く、せいぜい『お守り』程度」と切り捨てた。また、評判のマイナスイオンについても、健康効果に科学的裏付けはないとし、「ブームは全くのカラ騒ぎ。なんで大手家電メーカーまでブームに乗ったのか」と、これまで「科学的な常識」と多くの人が信じていた事は誤りだとした。
菊池教授は、「『ニセ科学』入門」という論文も公開している

 この『ニセ科学入門』こちらでも触れたことがあった。「宗教とか信じません」「科学ならば」「みのさんが言ってたから」「あるあるで」とか、影響は様々なのだろうが、本気で「身体に良い(悪い)と科学的にも証明されているから」と薦められるのは良い迷惑である。
 例えばマイナスイオン。現在売られているドライヤーに、この文字が入ってないものはないだろう。使用者に聞くと「マイナスイオンが入ってるから、使った後の髪はやっぱり違うから良い」と答えるのだが、科学的根拠が無いとなれば「何が入ってるかわからないけれど、使った後は良い」と言うのが正確だろう。いい加減「マイナスイオンだから」という理由では意味がわからない。
 また話題になったゲーム脳

テレビゲームで遊べば「ゲーム脳」になる危険がある、という研究があるが、ゲームにはストーリーがあり、人格形成に影響はあるかもしれないが、それは小説やドラマでも同じで、脳の機能が壊れるというのとは別の話だ、というのだ。そして、「(ゲーム脳は)教育関者に広く受け入れられていますが、そもそも、ゲームのし過ぎをなんとかしたいというのは科学の問題ではなく、『しつけ』の問題のはず。しつけの根拠を、科学に求めてもしょうがないのです」

 ゲームの描写がリアル過ぎたり、残酷すぎて脳に影響を及ぼすから「ゲームはだめ」というのが親や教育者の言い分だろうか。指摘されている様に「しつけの根拠を科学に求めてもしょうがない」のである。「なぜ人を殺したらいけないの?」という質問に「神様がそう決めたから」と答えるようなものである。
 僕はファミコン世代である。今までゲームをし続けてきた。とすれば僕の脳は既にゲーム脳で、認知症患者と同様の状態にあるということになる。
 ゲームで映像化されているものなんかは、今までハリウッド映画で嫌というほど、それこそリアルに映像化されてきていたものである。それに「リアル過ぎ」とか「残酷過ぎ」というが、現実世界にはもっと残酷なことが溢れている。
 DSで脳トレゲームが流行ったが、そういうものに対してはゲーム脳の批判はおきず、ゲーム内容によってゲーム脳の引用が変化するのは酷く主観的である。
 以下は脳トレゲーム監修の川島隆太氏の言葉。

「一般的なテレビゲームの多くは前頭前野を刺激しない(ただし必ずしもそうではなく、新しいゲームをやり始めたころや、文章が多く表示されるゲームで流し読みではなく本腰を入れて読んだ場合など、ゲームの内容や遊ぶ姿勢によっては活性化するケースもある)」
「テレビゲームで遊ぶことで脳が壊れてしまうことは100%ない」
前頭前野を使いすぎて脳が疲れたときに、休ませる目的でゲームをするのは良い」

 ニセ科学がなぜここまで人々に受け入れられたのか。

ニセ科学は、科学よりも科学らしく見えているのかもしれません。確かに単純な2分法で割り切れるなら簡単ですが、しかし世の中はそんなに単純にできていません。その単純でないものをきちんと考えるのが重要。それを考えるのが本来の合理的思考、科学的思考なんです。2分法は思考停止にほかなりません」

 なんと言うか宗教にはまってしまった人間に声かけているような感じの言葉である。

「2分法で簡単に結論だけを求め、あまり考えずに受け入れちゃうという風潮が、社会に蔓延しつつあるように思うんです。いい話だからいいじゃないか、ということだけではダメで、私たちは合理的思考のプロセスを大事にすべきなんです。合理的に考え、おかしいことはおかしいと判断できなければならないのです。そうしなければ、ポピュリズムに繋がっていく。そんな危ない時代にはいっているような気がするんです」。

 科学至上過ぎに成過ぎても、それは同じことである。つまり理性に合致させるという行為以前に、現代人の本質的理性が既に損なわれていては意味がない。そして科学的根拠の有無が物事の善し悪しではなく、不明なことを不明として認識し「わからないけれど良い」というその「わからなさ」を追求するべきなのである。