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最近は写真日記。

経営力とは何でしょう

 先々週のことになるが朝礼当番になり、「私からの一言」ということで以下の話をした。
 僕の実家は果物屋であり、父が3代目、僕が継げば4代目となる。3代目ともなると、果物のプロではあるが、昭和生れで、アメリカ型資本主義で育った僕からすると、残念ながら経営力に欠ける。例えば、味のわからない客には売らない。「向こうのスーパーの方が安い」と言われれば、「それなら向こうで買えば良い。その程度の味しかわからないのであれば、うちの果物を食べるに値しない」と門前払い。そんなんで商売が成り立つのか、と思うのだが、リピーターは多く、「やっぱりここの果物じゃないと」というお客さんが結構いた。
 背景には徹底したコミュニケーションがある。果物籠を持っていく場合、相手方はどこの出身で、どういった味が好みなのか、またどういった場合にあるのか。その出身地ではとれない果物がある場合はその果物を薦めるし、例えばバナナにしても、熟れて甘いのが良いのか、青くて堅いのが良いのかとか、味の好みもある。また入院中の場合は食べ易さなども考える。
 そういったことを果物を選びながらお客さんとやりとりをしている。一見さんであれば最初からのコミュニケーションになるが、顔馴染みであればその人自身の好みもわかっているので、果物も包み易い。日本ではコミュニケーションを会話のキャッチボールというが、キャッチボールのプロなんてものはおらず、要するにビジネスを行う場合の準備運動でしかないのだ。コミュニケーションはそれこそ政治的に作用するものであり、相手を結果的に教育する様なものである。つまりは果物のプロである以上、果物の味を「教える」もしくは「引き出す」ことができなければならない。
 イタリア、特に僕がいたペルージャでは小売店と大型店が共存している。また小売店をnegozioといい、英語のnegotiation、つまりは交渉という意味も含まれている(元々のラテン語ではneg-otium=neg(無い)otium(暇))。イタリアでは日常的に、客は商店で買い物をするわけでもなく、おしゃべりをして帰っていくことが多いが、いざ買い物をするとなると「この間話していたことでさ」と、それまでの文脈を活かす買い物方法を好む。人によっては個人情報を明かしてこその買い物だと思っている客もいる程に、買い物つまりはビジネスに及ぶまでの、言葉のキャッチボールに重きを置く。
 少し前に日本でもスローフードスローライフが流行になったが、どうも「ゆっくり食事をすれば良い」という意味合いで捉えている人がいたが、本質は地域生産地域消費であり、その地域の伝統的食材や、旬の食べ物など、生産者と消費者の距離を縮めることを指している。つまりは地域周辺の四季折々の食物を食べる、ということが根本にあるのだ。
 食品状況を知るために消費者は商店でコミュニケーションを行い、店主はその日の仕入れでより良いもの(その消費者にとっての)を消費者に供給する。そうして行われたコミュニケーションは無駄にされることなく、消費者は商品(この場合は食品)の価値(この場合は味)を学び、また店主はその消費者の好みを把握していく。言葉のキャッチボールから、ネゴシエーションへの文脈が活かされる瞬間でもある。
 話は日本に戻る。都市では大型店が優勢になり、小売店はシャッターを降ろす以外に途が閉ざされ始めている。僕の成長課程で目の当たりにしてきた戦後日本資本主義、つまりは数字至上型経営の文脈で語ればその状態は競争の結果として捉えることができるが、長いスパンで見た時、その後経営が継続できるかは甚だ疑問になる。大量消費社会の需要に対して、安価な価格で大量生産された商品を供給する。結果として資本力(大量流通力?)の無い、小型店の経営は圧迫され自然選択される。生物的に見れば残ったものが、淘汰の結果ではあるが、残念ながらその選択をしているのは人間自身であり、その選択自由性は政治に左右される。現実として日本とイタリアではそれらの生き残り方に差異がある。
 大量生産、大量消費で安価で、それなりに良いものに慣れてしまった消費者は、高い金を払って品質の高いものを買おうとするのか。例えば農薬を一切使わないりんごを生産するために10年以上かけた(その間は生産停止)農家もあるが、その味がわからない消費者はそれ相応の金額を払ってまでそのりんごを食べようとは思わないだろう。供給者側に立つ以上は商品の価値を見定め、消費者との間でコミュニケーションを十分に行い需要に答えつつも、より良い商品を知ってもらえるように、こちらからも積極的に働きかけるべきである。消費者を規定するのは結局のところ生産者と供給者ではなかろうか。
 そんな話をした。前置きが長くなったが、その話をしながら経営力というものを長いスパンで考えると、消費者が平均化されるより多様性を保ったままの方が、供給者はより長い経営が可能になるのではなかろうか、と考えた。つまりは取扱う商品の性質を小型店が自由性、大型店を汎用性と考えた場合に、大型店重視の市場では価格に支配され多様性が希薄になった結果、価格の低下と共に商品の質も低下し続けるというスパイラルが想定される。要するに価格だけで商品を見極める消費者が増え、物を知らない消費者が増えると、低価格帯の商品だけが生き残り平均化される。するとまた新しい低価格帯が出現し平均化され…、と小規模の多様性に留まり続け、市場規模は結果的に縮小してしまうのではないだろうか。だとすればその経営方法は目先の利益だけを考えれば正しいのかもしれないが、後々の市場を考えた場合では自分の首を絞めることに成りかねない。
 イタリアで日々見ていたスローライフは、消費者と生産者をしっかりと供給者が繋ぎ、供給者が消費者に対して生産者が意図する商品価値を教えていた。大型店が如何に進出しようが、消費者はそのニーズに対してしっかりと使い分け、小売店の必要性を十分に理解していた様に思われる。結果として小売店は、大きな利益をあげることが無い反面、経営を続けることが可能になり、消費者は選択の自由性を得ることになるのだ。
 経営力が意味するものは、やはり存続性だろう。一時莫大な利益をあげても生き残る可能性が低下してしまっては意味がない。長いスパンで、広い視野で存続性、もしくは継続性を考えられる経営こそがこれから求められる経営力なのだろう。そしてそれは企業だけではなく、人間にもあてはまることではなかろうか。