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最近は写真日記。

憧れの仕事

MORI LOG ACADEMY:憧れの仕事が危ないより。

 近頃の若い人を見ていて、また1つ特徴的なことをを見つけてしまった。それは、仕事に対してなんらかの憧れを持っている、という点だ。つまり、自分が好きな仕事がしたい、自分の趣味と一致する仕事を見つけたい、やりがいのある仕事を選びたい、というふうに考えている人が多い。これは、どんな時代にもあったかもしれないけれど、これまでの日本では、そういった選択の余地はなかった。仕事とは、とりあえず食うために行う労働であって、雇ってくれるところで働くことができればラッキィだ、という状況が長く続いていたのだ。やはり豊かな世の中になったせいだ、と簡単な分析はできないとは思うけれど、平均的には、そういうことによる結果かもしれない。
 憧れの仕事にうまく就けない場合の問題は、特に言及するほどのものではない。それはごく普通のことだ。昔からあった。むしろ問題なのは、憧れの仕事に就けた場合である。
 自分が望む職種に就けたため、「仕事にはまってしまった」若者が散見されるのである。彼らは一見幸せそうに見える。彼ら自身も最初は幸せだと感じ、ますます一所懸命仕事に打ち込む。ただ、傍から見ていると、安い賃金で重労働を強いられている様が観察される。ちょっと頭を冷やして、自分がしていることがどの程度の「労働」かを認識した方が良くないか、と思うことがしばしばだ。そして数年もすると、思ったとおり、疲れ切って別の職場へ移る者が非常に多い。このため、どんどん新しい人間がその「憧れの職場」へ供給され、それで回っているのだ。経営者にとっては極めて好都合な条件であることはまちがいないが、これは正常だろうか?
 たとえば、僕が若い頃、建築の設計事務所がそうだった。仕事を覚えるまでは、月給などろくに出ない。食事ができるだけの小遣いしかもらえないのに、休みもなく働かされる。そうやって仕事を覚えるのだ、と言われていた。まるで「弟子入り」のようなものだ。傍から見ていると、「憧れを利用した若い労働力の搾取」ではないか、と感じられた。少しまえは、SEがそんなふうに見えた。今はどうだろう。漫画家やアニメータはどうだろう。是非、憧れの職場で頑張っている人は自覚してほしい、仕事とはすべて「労働」である、ということを。

 以前スキル・テクニック、アビリティにおいて、「労働力は等価である。」と書いた。「仕事をするなら自分のやりたいことを」と、仕事を選んだりはしない。なにより仕事を「選んで」いる時点で、自分のやりたいことができていない。「自分のやりたいことが仕事になれば」という言い方の方が腑に落ちる。論点がズレてしまったので、引用文に戻る。
 「憧れの仕事」という記号が罠だ。需要と供給の均衡が崩れれば、インフレ、もしくはデフレを起こす。ここでは求人先と求職者のバランスに置換できるが、端的に示せば、人気のある求人先は安い給与でも人が集まり易く、真新しくもない求人先では給与面での数字や待遇面での考慮をしなければ、中々人が集まらないのが現状である。そして問題はその「人気のある」が何処から導き出されているかだ。例えばドラマで、ある職種を取り上げれば、他のメディアも追随し露出が高くなる。ちょっと古くなってしまったが、カリスマ美容師などが良い例だろう(カリスマ美容師の場合はドラマが後追いかもしれないが)。メディアでの露出度、注目度により「憧れの仕事」の偏りが変化する。また13歳のハローワークなど、限定された職種を取り上げることに依って、載った仕事と、載らなかった仕事で差が出てしまう。ちなみに記憶違いがなければ、13歳のハローワーク文化財調査員は紹介されていなかった。
 また求職者に対する求人誌のあり方も作為的である。見出しに「今人気のあの仕事」などキャッチが踊り、毎週その「人気の仕事」が入れ代わる。営業職、接客・販売、製造などなど。カテゴリーとしては定番ながらその中でも希少職の特集が組まれ、「○○のなりかた」などと求職者との距離を縮めようとするが、実際の求職内容はハードルが高いものだったりする。求人情報を制作している人間として言えることは、やはり巻頭特集だったり、目につき易い場所だったりにあると、募集効果が上がるというのが一般的である。例えば内容が同じでも、レイアウトを変えて、掲載される場所を変え、特集ページに差し込んで上げるだけで、求職者の反応は違う。具体的に言えば応募電話の本数が増えるのである。
 そうしてさして人気があるわけでもない仕事、言ってしまえばまるで人気がない仕事ゆえに「人気ですよ!安売りです」とキャンペーンをする(できる)ことによって、その仕事はさも人気があり、競争率が高そうな求人へと変化するのだ。現実的に考えて人気があれば求人情報など必要なく人が集まるのである。「憧れの仕事」にしても、その形成は同様だろう。幼少期から青年期にかけて何に憧れるかは人それぞれだろうが、毎年「将来就きたい仕事トップ10」をできる位の偏りがあるのが何よりの証拠だろう。
 仕事を選ぶのであれば、僕にとっての規準は全て、その労働力は等価か、という点に尽きる。労働力は等価である、という言葉もまた政治的であるにしても、支払われる賃金が妥当であれば労働力を提供する(法令を遵守する限りにおいて)。その妥当性の着地点は自分の生活に照らし合わせたものになるのだ。要するに仕事を「選ぶ」場合のプライオリティとして、まず給与と勤務地があり、そこから職種、待遇となる。どちらかというと資格は最後だ。仕事は結局のところ労働であり、賃金を得るためであり、生活をするためである。生活が苦しくなる程に賃金が労働に見合わないのであれば、やはり転職するべきだと思う。日本人はどうやら下積みという苦労時代を前提に、後の出世を美化する傾向にあるが、それでは出世することが目的になっていて、本来的な「憧れの仕事」に向き合っておらず、どちらかというと「憧れの地位」的印象が強い。
 イタリアで出会った日本人青年が「修復とかやりたいんですよ。ユネスコみたいの。知りませんか?世界遺産とか、ああいうの」と初対面で僕に言い、その何ヶ月後に会って「あれはもうやめました。難しそうなんで。もっと面白そうなの探します」的なことを自信満々に言っていたのを思い出した。あれから「面白そうな」将来は見つかったのだろうか。根源的な問題として、「憧れの『仕事』」が「成りたい自分」に代替されているのが危険だと思う。憧れだろうが何だろうが、仕事は結局労働だ。労働が自分の将来だとすれば、それこそ政治的な刷り込みだと言えるだろう。