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最近は写真日記。

Gated but freedom

 週末にテレビを見ているとフィリピンの日常生活が写し出された。格差はあれど、居住地区はフェンスで囲われており、武装したガードマンがゲートで出入りする人間をチェックしていた。その上高級住宅地になると、一軒一軒各ゲートにガードマンがいた。物理的な障壁をもってセキュリティを高めており、比較的原始的とも言える。
 また先日ロスに住んでいる幼馴染が仕事で帰国し、出産祝を持って来てくれたのだが、その時に現地の治安の話になった。「日が暮れてから一人で出歩くなんてのは危険だよ。例えば女性が一人で歩いていれば警察が保護して家まで送り届けてくれるしね。ただ警察官が日本とは比較にならないくらいにそこら辺にいるし、住民側も警察官の行動を監視してるから、セキュリティの意識は凄い強いよ」なのだそうだ。
 日本でも似た様な環境は構築されつつある。武装したガードマンや警察官が多くいるわけではないが、セコム、オートロック、管理人など、複合的障壁を築き個を守ろうとしてはいる。その二国のセキュリティ概念の根底には決定的な差がある。米国式の社会的監視システムによるセキュリティ強化と、日本の自己責任による自己防衛だろう。
 ネット上ではどうだろうか。SNSとブログ、要するにクローズドコミュニティとオープンサイトでは、本当にクローズドの方がセキュリティは高いのだろうか(元来クローズドサイトはセキュリティ強化が根底にあったはずだ)。現状ではこの2種の性質を隔てるものは、記事・日記内容がサーチエンジンにヒットするか、ヒットしないかの差程度しかない。ただしSNSでは一度ログインゲートを潜ってしまえば、内部検索も利用できる上に、現在オンラインかオフラインか、また日本では最大手SNSmixiの足あと機能や、直近のログイン時期がわかるなど、行動をシークすることができ、セキュリティ面では諸刃であることは確かである。
 逆にオープンサイトの場合は、スパムコメントや、スパムトラックバックの標的に成り易い。またサーチエンジンに安易にヒットするために、安直にプライベートや守秘義務が発生するものに関しての話は上げられない。例えば就職活動を行う際に、雇用側が求職者のブログを検索し、就職活動以前の求職者の姿を探ろうとする場合があり、自分にとってマイナスになるものは書けない。「自分にとってマイナスになるものは書けない」と書いたが、これはクローズドでも適用可能だが意識範囲が異なる。クローズドではサーチエンジンにひっかからないために、不特定多数を意識しなくて済むが、逆にコミュニティ等内輪のタブー事を意識しなければならない。
 どちらかが優れているか、というよりはどちらかが自分に適しているかが重要になるのだろう。ただしセキュリティとは違った視点でソーシャルネットワークを考えるとより開かれたネットワークの方が有益性は高い様である。
以下社会的ネットワーク - Wikipediaより引用。

社会的ネットワークの在り様は、それを形成する主体者としての個人にとって、そのネットワークの有益性を示す鍵になると考えられている。例えば「緊密型ネットワーク」は、ネットワーク上に多くの空白を含むもの(social holes - 社会的空隙)や、主たるネットワークの外側で他の主体者と緩やかにつながっているもの(weak ties - 弱いつながり)に比べ、メンバーにとって実際にはあまり有益ではない。より開かれたネットワークには、社会的空隙や弱いつながりが多く含まれており、冗長なつながりに満ちた閉鎖的なネットワークよりも、より多くの新しいアイデアや機会に恵まれる可能性があるのだ。言い換えればこうなる。ただ一緒に何かをするだけの友人集団というのは、同じ知識や機会を既に共有してしまっている。一方、他の社会的世界へ関わりを持つ個人の集団というのは、より広い範囲の情報へとアクセスすることが出来る。ひとつのネットワーク上で多くのつながりを持つよりも、様々なネットワークへのつながりを持つ方が、個人が何かを成し遂げるときにより有益であると解釈することが出来るのだ。

 ゲーテッド、限定されているということは、外側にあるものを否定している、ということでもある。ヘーゲル的否定だが、「である」はそれ以外の「でない」ものを否定し得る。要するにゲーテッドセキュリティの根底にあるものは内側は安全であり、外側は危険という、幻想を物理的に可視化させる装置であるとも考えられる。この幻想の出発点は人間の身体と精神の分離性にあるのだと想像する。人は物理的に肉体をもってして始めて内と外を区別できる(と思っている)。皮膚がその境界線となるのだろう。しかし精神には内と外の区別がない。確固たる自分を確立し得る依るべきものがない。換言すれば限定されておらず、オープンである。人の身体はゲーテッドであり、精神はオープンである。
 社会的セキュリティの話から人の生物としてのプロテクトの話に飛んでしまったが、ハードは限定的であっても、ソフトはオープンである、というのが自然的発想なのだろう。(もちろんハードが限定的である、という考えもまた限定的である、という視点も必要になるが。)そして人はその葛藤によって現在の文化的発展を遂げたとも言えるだろう。
 ソフト的にオープンであるはずのネット上に、クローズド環境を形成する意味は、肉体的物理的コミュニケーションに捕われたコミュニティ発展の延長でしかない、とも言えるだろう。換言すればその時点で既に身体と精神がイコールになり、限定されてしまっているのだ。短期的安定性とプロテクションには向いているのかもしれないが、コミュニティの発展性と偶有性は劣るのだろう。また範囲を広げた時にクローズドカルチャーでは独自的発展と保存、オープンカルチャーでは革命的発展と伝播という傾向が考えられるが、複合的ネットワークにおいてはどちらが有益であるとは一概には言えない。
 肉体的限定性を思考にまで持ち込みたくはない。人は自身で空を飛ぶことができなくても、その類い稀な発想力で飛行技術を進歩させた。技術革新の度に、セキュリティの定義は見直され、プロテクションの方法も変化した。フェンスで居住地区を囲い、そこに安全性を見い出す心理はわからなくはないが、それを真の安全だとは思えない。隣人がいつ犯罪を犯してもおかしくはない。同居人、家族の一員が襲ってくるかもしれない。ゲーテッドで得られる安全性は、社会治安が安全になったからではなく、個人的安心感を得るがための処置でしかない。外を否定して、内側を肯定した安全性はそんなものでしかないのだ。世界は広いが肉体は限定的である。しかし精神・思考は限定されずに夜な夜な夢を見る。肉体のリミットを外したいと。限定されたくないと。精神はオープンであるが為にその安定性を手に入れることができる。オープンソフトウェアがそうであるように。天秤は制止している時よりも、多少揺れている方が安定している、とも言われる。安定とはそういうものなのだろう。重要なのはそれを許せるかどうかだ。天秤をロックしてしまっては、天秤はその役目を果たさないのだから。