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最近は写真日記。

イタリアンイタリアンが美味しい訳

イタリアンはどうして美味しいの?(内田樹の研究室)より。

どうしてイタリア料理が美味しいのか。
それは大航海時代に世界中の食材がジェノヴァベネチアナポリなどのイタリアの貿易港に集まってきたからである。
世界中から到来する奇々怪々なる食材をかたっぱしから調理してしまったということによってイタリア料理はそのレシピを豊かなものにしていったのである。
食文化を高めるというのは、食材や料理法の伝統を墨守することではない。
もし地中海世界のヨーロッパ人たちが彼らの「伝統的な食文化」を後生大事に守っていたら、私たちの食膳にはジャガイモもトマトも唐辛子も胡椒も載っていないのである。
しかし、イタリア料理はある段階でそのダイナミックな進化のプロセスを止めてしまった。

 近代化のために、フランス料理を真似てイタリア人は自国の料理をコースに見立て、小麦の大生産地であるアメリカへの移民により、パスタとトマトソースを広めた。しかし未だに「ピザはナポリピザ。アメリカンは最悪だ。オリーブオイルはイタリア産でなければ、エクストラと認めない」と食そのものに対しては保守的ではある。それでも日本人には美味しいと思われる。何故か。極端に言ってしまえば、日本で食べるイタリアンは真のイタリアンではないからだ。食材を取り寄せようと、新鮮さが違う。日本人が料理をしている以上、日本人好みの味付けになる。イタリア料理人を呼んだ所で、絶対的に差がつくのが水質である。
 イタリアで、日本料理屋に行って日本食を食べても美味しいと感じるのは稀である。大体において美味しいと感じる料理は、「日本料理として」ではなく、「これはこれで美味しい」という類いのものである。イタリア人が日本に来ても同様でなのである(友人談)。
 結局のところ日本にいる限り真のイタリア料理は再現できない(再現する必要性は無いのだが)。イタリアに行って、食事をして初めてイタリアンを食べたと言える。それが例えピッツェリアでも、トラットリアでも、ましてやバールでも良い。そこで出された食べ物が、イタリア人によって料理されているのであればイタリアンと成り得る。そう書いてしまうと食文化は結局の所地理に依存するということになってしまうのだが、文化という以上文脈があり、それを切り離すことはできないのだ。
 食文化とは刷り込みである。食べ育った環境が、味の好みの幅を決定する。母乳にしても、離乳食にしても、イタリア的であればこそ、本来的なイタリアンの味を理解できるのであろう(そうでなければ、理解できないという意味では無い)。要するに「イタリアンは何故美味しいの?」を「スローフードで、伝統的な食文化を守っているから」で片付けるのは早計であることは確かであるし、ダイレクトにイタリアの食文化を、イタリア食だけで説明しようとするのもまた安直過ぎるのである。例えばイタリア人はシーフードピザに対して抵抗を示す(食文化)が、日本人にしていみればピザである以上、それは「イタリア食」なのである。
 僕は4年近くイタリアにいて、イタリア人が日常食材を購入するところで買い物をし、そのまま食べられる食材(生ハムやチーズ、パン等)はそのまま食べていた。残念ながらイタリア人の作る家庭料理を食べる機会は限られていたが、美味しいと思える料理の殆どが食材の味を活かしたものが多かった。イタリアで食べるイタリアンを美味しいと思えたのは、やはりスローフードという背景に依る所が大きい気がする。四季折々の地域毎の食材と、それに適した料理法。美味しいものはそれだけで美味しいのである。そしてそれは日本でも同じことが言えるのだ。ちなみにイタリアのスローフード協会も全てが排他的なわけではない。日本の農家が輸入米に対して過剰反応した時を思い出せば、似たり寄ったりであるので、スローフード=保守的根源と見るのは浅はかだろう。
 何が言いたいのかというと、日本人がイタリアンを美味しいと感じるのは、「ジャパニーズイタリアン」だからこそであり、それはつまり日本食のバリエーション、もしくは日本食の進化と捉えても良いのだろう。かつてのイタリアがそうであった様に、世界各地からもたらされる食材によって、自国料理が影響を受け改良されていく。ナポリタンやテリヤキピザなど良い例だろう。
 個人的には、ヨーロッパ料理よりもやはり大陸料理の方が美味しいと感じる。トルコ、中国やインド、ベトナム、タイ、韓国料理等、食べても食べても飽きないものばかりである。ちなみにこの中で現地で食べたことがあるのは、インド料理とタイ料理で、後は他国での経験になる。そういう意味では本来的な味を経験していないが、中国料理か韓国料理は現地で食べてみたい食であり、食のために赴いても良い国だと思っている。