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最近は写真日記。

好きなことは、生きること、だったならば

 「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法が話題になっている。

生命体が「流れ」そのものであるように、いろんな思考、アイデア、感情、感覚、欲望が常に入れ替わり、移ろいゆき、「流れ」として自分の精神を形作っている。
それは動的平衡を保つという形でのみ「自分」を形成しており、どこかに固定化された静的な「自分」などというものがあるわけではない。
「自立した個人」という近代の理想的人間像が人間を拘束し、灰色の部屋に閉じこめ圧殺してしまうのは、人間の精神が静的なものであることを前提とするという過ちから来ているのではないか。
人間の精神が静的なものでない以上、自分の中の「好き」も静的に固定化することなど出来ず、そんな静的な自分を求めて、インドやタイに「自分探しの旅」に出かけたところで、「本当の自分」などという静的な状態を見いだすことなどできやしない。
好きを貫こうにも、そもそもそんな静的な「好き」など存在しない。好きというのは、努力して見いだして貫くようなものではなく、
自然体で生きているうちに、結果として動的平衡として好きなことをやっている自分という状態になるのではないか。

 神さまなんて信じていない僕らのためにで書いた言葉を思い出す。

 こんな風に人間の主観と疑似客観は揺れ動く。そのふれ幅がそれぞれの中庸を決める。極端を知らなければ中心は計れない。中心に立った途端に極端は見えなくなる。シーソーの真ん中に立っていても、シーソーは楽しめない。かといって、片側に座っていても、シーソーは遊べない。そこから移動するか、1人でジャンプをするか。

 自分の限界状況はどこなのか。スキルやテクニックではなく、アビリティ、つまり能力はどう変化するのか。ただ振り返ってみると、僕はもう後退していくだけなのかとも感じずにはいられない。二十歳を過ぎてからスキルやテクニックは増えたが能力の飛躍はなかった。もしかしたら今のふれ幅が僕の限界状況なのかもしれない。今在る自分が色々な意味で合理的なのかもしれない。念のために生きた結果の表現体がこれなのかもしれない。

 実のところ、それならそれで、と思う。成りたい自分などない。理想像もない。今の自分に不満足感でいっぱいというわけでもなければ、満足感で満たされているというわけでもない。言葉でいえば、「そう在る自分」しかない。10年前にイメージした自分の延長線上にいるし、10年後もそう在るのだろう。イメージといっても、「今在る自分」というイメージだけれど。そんなイメージも祈りの様なものでしかないのかもしれない。何に祈るのかはわからないし、祈るべき存在は人工物しかないのだけれど、祈るという行為は人間特有の希望なのだと思えば、それはそれで微笑ましい行為だから、まあ良いかと思える。

 考えてみると、これを書いてから1年が経った。僕はそれからどう変化したか。会社員になり、スーツを着て仕事をしている。あれ程嫌がっていたビジネスマンをこなし、反抗と侮蔑の対象だった管理職に自分が成っている。意味がないと言い切っていた会議には毎週出席し、死んでも嫌だと言っていた歓迎会や忘年会にも参加している。プライベートでは、2人目が産まれ、まるで興味のなかったイオンとかモールとか、ファミリー向けのショッピングセンターに居心地の良さを感じている。個人で行動することは無くなり、行動単位が個人からファミリーへと完璧に変化した。「フットワークが重くなった」と感じる人もいる様だが、望んだ形なので現状に不満はない。
 結婚から初まり、今まで全否定していたものを受け入れている状態である。受け入れざるを得なかった、というのが最もな理由だが、過剰反応すること無く受け入れることができたのは大きな変化だろう。もちろん短絡的にそれを成長だとは言えないが、今まで「他人にできて当たり前のことは、自分にできて当たり前だし、それ以上にできなければ面白くない」と言っていた自分をある程度具現できたのはちょっとした成果としたい。
 それで満足しているか?と聞かれれば、相変わらず否であり、答はいつでも「成りたい自分などない。理想像もない。今の自分に不満足感でいっぱいというわけでもなければ、満足感で満たされているというわけでもない。言葉でいえば、「そう在る自分」しかない」のだ。もちろんこのままビジネスマンでいることもないし、忘年会で顔を売らないといけない様なことを続ける気もないが、そうしていられる時間は多分今しかないのだろうから、できる限りのことは見様見真似でやっている。給料日が楽しみだったり、ボーナスで何を買うか考えたり、それはそれで案外とシンプルに面白いものではある。労働力を商品化し、賃金を消化し、日々を費やす。シンプルなシステムであり、それだけで不自由のない生活を営めている。
 消費を楽しめればそれで良いのだろう。残念ながら僕は消費生活だけでは満足することはない。精神的な快楽を求めて、彷徨していくことになる。但し先述の様にそこには確固たる形態はなく、成りたい自分があるわけではないのだ。考古学には相変わらず触れている。自分の専門に割く時間は減っても、志しは変わらない。

必死で努力し、ガマンして毎日ステーキを食べつづけなくても、肩の力を抜いて、ふらふら、だらだらしながら、自然体でサービスを作り出した方が、むしろ、より次の時代にふさわしい、新時代を切り開くような洗練されたサービスを開発できるのではないだろうか。
真に強烈な打撃は、脱力とリラックスから生み出されるというのは、さまざなまスポーツと格闘技の基本だ。
これが、ステーキが大好きな僕が、いま、血の滴るステーキではなく、納豆かけご飯と塩鮭とほうれん草のおひたしを食べ、バランスボールをポヨンポヨンさせながら、この記事を書いている理由であり、明日もまた、やはりステーキの好きな僕は、オニオンスライスとシーチキンの和え物でも食べようかと思いつつ、気が変わってカレーライスでも食べているかもしれない理由なのである。

 そんな様な生活をアリだと思える様になった自分が、今の自分なのである。多分研究者として今と同じ様に稼げる様になるのは、何十年も先のことなのだろう。その時はその時で研究者としてのブレを楽しむことができればと思う。