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最近は写真日記。

ポリアモリー

 ポリアモリー - Wikipedia

ポリアモリー(polyamory)とは、つきあう相手、親密な関係を同時期に、一人だけに限定しない可能性に開かれていて、全ての関係者が全ての状況を知る選択が可能であり、全員がすべての関係に合意している、という考え方に基づく行為、ライフスタイル、または恋愛関係のことである。

性的に排他的でない関係に広く使われることが多いが、どれくらい範囲を広げて使用するかに関しては、さまざまな議論がある。(たとえば、多くの人は、一部のパートナーが一部のパートナーの存在、もしくは関係の全詳細を知る選択の可能性に開かれていない、合意の無い不倫や、基本的には、恋愛などの感情的なつながりを含まないことが多い、スウィング(スワッピング)をポリアモリーとはみなさない。)

 セフレが多数いることをポリアモリーじゃないのか、という言い方をしていたが、よくよく調べてみると定義が厳しい。セフレが多数いて、全ての関係者が合意している、という状況は難しいだろう。つい最近そんな宗教団体があったなと思い出すが、あれこそ正にポリアモリーなのだろう。

複数恋愛ともいう。現代の欧米や日本では一夫一婦制(モノガミー)が社会規範となっているが、戦前の日本では男性にのみ複数恋愛が認められ、女性には貞操が要求され、他の男性と関係をもつと姦通罪として処罰された。

 複数恋愛という言葉がセフレ関係に転用された用だが、オープンコミュニティであり相互認証もあるとなると、戦前の日本人男性もその枠には入らないだろう(戦前の範囲が曖昧だが、徳川時代の一夫多妻はポリアモリーと考えられる)。
 先述のWikiの中にボノボの名前が出て来たが、以前職場でボノボ流行があった。ボノボがどれだけ優れているかを教えられたが、一番の驚きは正常位で交尾を行うということである。
 話が逸れた。僕の場合セフレが数人いたが、全員がすべての関係に同意していなかった。また同意まではいかないが、それぞれの関係の認知レベルにも差異があった。現状としてはモノガミーに安息を覚えている状態なので、当時の行動はポリアモリーだったわけではなく、モノガミーに辿り着けない関係性を複数築いて相互に補完していた、と考えるのが健全だろう。そしてその背景には絶対的なモノガミー関係への憧れがあったと考えるのが妥当である。ただしモノガミーという現象、特に日本でのモノガミー化には政治色、宗教色が入り交じっており、西洋のキリスト教的モノガミーとは断絶があると考えるべきだろう(キリスト教圏でのモノガミーは宗教倫理を前提とした政治利用という下部、上部での棲み分けがある)。
 僕は何故深層心理でモノガミーに執着したのか。現状、何故そこまでモノガミーという関係に充足を感じているのか。結婚生活を営んでいる今では、その答に辿り着くのは困難だろう。僕が死ぬ時か、それとも伴侶が死ぬ時か。その時に何かを感じることができるのかもしれない。