apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

ロウソクに火を灯すか、灯るのを待つか、あるいは

「自分は何か言われるまで何もしないから、あなたも何か言われるまで何もしなくていいよ」という人と、
「自分は言われなくても色々するから、あなたも言われなくても色々してね」という人。
非コミュは自然と前者の認識を持っている。けど、非コミュに悪意を向ける人には後者の認識がある。

非コミュの苦悩と、悪意より。

だからさ、自分はいわれなくても色々するけど、あなたは何もしなくていいよ、
それで損しても知らないけど、みたいな態度だってあるんじゃないかな。

大衆の憂鬱より。

こういうことは一般社会ではよくある話。
義務(=最低限のコミュニケーション)を果たしているのに関わらず、
「それじゃ足りない。それ以上の意思をみせろ」という偏った正義を振りかざす人たちは常に存在します。

こういうことは一般社会ではよくある話ですより。
 以上の流れを見ていて、まず浮かんだのが「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」というフレーズである。要するに「すすんであかりをつけましょう」の背景には、「自分は言われなくても色々するから、あなたも言われなくても色々してね」倫理が含まれている様だ。
 主体性とは耳触りの良い言葉であるが、状況や場に依ってその性質は変化する。例えば会社というassemblageになると、「自分は言われなくても色々するから、あなたも言われなくても色々してね」が強制的になる。もちろん背景には労働契約があるため賃金等価分の労働力を提供する必要性があるが、その主体性の範囲は曖昧であり、「主体的に動きましょう」と注意された時の動きは本来的な主体性を失う事に他ならない。
 見通しの良い、道幅の狭い道路を歩いているとする。道幅は普通自動車がやっと通れる程度であり、歩行者は端に寄らないとスムーズな進行が困難な場所である。前方から乗用車と歩行者が向かって来る。僕は乗用車の進行速度と、その乗用車の後ろに使えている自転車や他の歩行者を鑑みて、端に寄る。しかし前方から向かって来る歩行者は、後ろの乗用車の存在に気が付いていながら(振り返って目視している)、端に寄るわけでもなく依然優々と歩いている。乗用車はもちろんクラクションを鳴らすことなくゆっくりと進行しているわけだが、その後ろに使えている他の通行人には苛立ちが伺えた。
 当事者にとってはどれも正論だろう。スピードの早いものを優先した方が通行はスムーズになる。歩行者は自動車に優先されるため、道を譲る必要性はない。自動車もわざわざ細い道を選んで入って来る以上、クラクションを鳴らしてまで歩行者を退ける様なことはしない。しかしその行動から影響を受ける後続者には不満が募るのである。「端に寄れば車が通れるのに」「狭い所に車で入るなよ」と。
 以上の例えが会社という場で、業務上であれば、そのタスクをスムーズに遂行するためにも「主体的に考えて動きましょう」と圧力をかけることになる(その圧力を何処にどのようにかけるかが、管理者の力量になるのだろう)。しかし日常的な風景では「主体的」な行動に任せる他ないのであり、その主体的行動は他者には予測不可能だと言っても良いのである。
 以前繋がりと関係とで言及した様に、僕にとってみればコミュニティとは「コミュニケーションを取れる意識的な集まり」であり、コミュニケーションの前提条件としての発信、受信の相互作用を含めた上で、当初の命題に立ち返ってみる。

非コミュは自然と前者の認識を持っている。

 「自然と前者の認識を持っている」が暗黙の了解だとすれば、その共通認識を元に、結果として非コミュという名のコミュニティとして自立可能である。本来的であれば多様性を極めるはずのコミュニケーションは、現状言語ツールに依存する比率が高いため、言葉を持たない人たちを廃除する格好になる。サバルタンという概念を借りるならば、非コミュであることがサバルタンなわけではなく、サバルタンであるがために画一的に非コミュとして顕在化させられている様に思える。つまりはコミュニケーションの方法に囚われた結果、コミュニティ性が限定され、結果として排他的となった、と考えても良いのだろう。以上の様に考えるとコミュニティがオープンかクローズドかの対立にスライドしてしまうが、コミュニケーションの深度と方向性と表現方法により、コミュニティの成立も異なるのが自然なのではないだろうか。
 近代化により、個人レベルでの社会への主体的参加が義務、強制化され、外面での相互監視より内面からの自己監視が強化された結果の脅迫性に依るものかとも思ったが、そんな単純で歴史の浅い問題でもないだろう。近代以後、事象が再発見され顕在化した、と見る方が無難だろうか。ポストフォーディズムが労働者の主体性に依るものであれば、非コミュである、という主体性もまた認めるべきであり、労働環境において非コミュという存在により、他者が主体的に見えるのであれば、そのシステムの一貫と捉えるのも穿った見方ではないはずである。