apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

文化的窓口と戦争根源

 電力会社と防弾ガラスより。

しかしふと周囲を見てみると,一人,また一人と切れ目なく誰かが遣って来ては財布から現金を取り出し,支払いを済ませていく.小切手さえ使わない.そして僕が見た限り例外なく,全員が貧しげな身なりをしていた.そこでハッと思う.小切手もクレジットも,銀行に口座がなければ使えない.つまり,ここに電気料金を支払いに来る人は,銀行に預金をする余裕さえないということなのか.だからこの場所は必然的に貧困層の人たちばかりが集まり,それだけ犯罪のリスクも高くなり,社員の安全(と受け取った料金)を確保するために防弾ガラスが設置される...

「私がマイクを切って話すときはこちらの問題なので,口出ししないでくれ.聞かれたことだけ答えてくれればいいから」

僕と社員の間に置かれているこの防弾ガラスという壁が,社員の中にまで心理的な壁を作ってしまう.こんな壁さえなければ,僕はもう少し気分良くこの手続きを終わらせることが出来たのに.安全第一なのは分かる.だがその結果,この職場からは笑顔が消える.支払いの受け取りと,機械的な情報入力だけが機械的に行われ,必然的に雰囲気は殺伐としてしまう.

何がいけないのだろう.貧困か.銃か.それとも何でも直ぐに内側と外側に分けて壁を作ってしまう人の心か.多分その全部で,そして理由なんて他に幾らでもあって,同時にそれら一つ一つの全てに対して,僕は何の解決策も持っていない,そういう考えが襲ってきて,気分は物凄く憂鬱になる.

 以上の文章を読んで驚いたのが、それ以外の所、例えば大学の窓口等ではしっかりと「人間的」な対応がされている、という背景が伺えたからだ。イタリアでは万事が以上の様だ。窓口は全て強化ガラスか、強化プラスチックで被われ、まるで監獄の面談窓口の様に物々しい。窓口下部、カウンターよりに書類を通す必要最小限の切り口があり、声を通すための円形に並んだ無数の小さい穴が、顔の高さに設置されている。出入国にしても、滞在許可証を貰う時も、大学入学手続きをする時も窓口はいつもそうだった。差異があるとすれば銀行、郵便局、社会保険等窓口である。
 出入国の際、国籍とビザの違いによってチェックの仕方が異なる。日本人で旅行者であれば、あまり問題はない。日本人で学生ビザだとそのタイプによって審査が異なる。そしてアルバニア人で学生ビザだと、相当入念なチェックが入る。滞在許可証の申請はもっと混沌としている。警察署の窓口は週3日、午前中しか対応していないため(滞在許可証は入国後1週間程度で取得しないといけない)、様々な国の人間で窓口はごった返すことになる。何よりその窓口に到達するためには整理券の入手が必要であり、そのためには朝の5:00位から人並みにもまれながら待たなければならない。大学入学手続きも同様である。
 通常の短期語学留学では以上の事が厄介に思われて、「イタリアに人権など無い」と嫌気が指してしまう場合が多い。確かに窓口に並び、手続きをしている間、まるで人権など無いに等しい。おはよう、と挨拶をしても返事などせず、担当官は機械的に書類をさばく。書類の不備(エラー)があれば、「また次の日に持ってこい」と、その場での訂正は認めてくれず、全てが機械的である。例え質問しようにも、「質問は違うフロアに担当がいるからそこへ」と遮られる場合がある。
 1度や2度の経験ならば嫌な思い出となるが、数回繰り返す内に、何故その様な対応になってしまうのか、妙に納得してしまう場面に出会す。担当官はそれでも人間である。機嫌が良ければ、少し位のエラーでも、質問でもフランクに応えてくれる。が、大体においてそういう窓口に野次を飛ばす輩が現れる。「しゃべってねぇで早くしろよ」「日本人だから差別してんだろ」「ちょっと私も聞きたいことがあるんだけれど」。順番を守る、という暗黙の了解は、文化と国籍が違えば暗黙の了解と成り得ない。少しでも無駄口や、質問をすれば、横から入り込んで来たり、自分勝手に話始める人間がいる。要するに多国籍文化・宗教であるがために、常識は圧倒的に異なる。男性優位的な常識で、女性担当官に命令口調で話し始めたり、自民族優位的常識で他民族の順番を抜かしたり。そこはまるで戦争の根源の縮図である。
 結局のところ、それを解決するのは圧倒的な秩序である。権力が行使されるのは書類、つまりは秩序に従えなければ滞在許可証は受領できないのだ。もちろん受理する側は、移民等(滞在許可証は移民課担当)はできる限り受け容れるべきではない、と考えているのだろう。自国の治安や労働環境を考えれば、政府の意向であっても、移民受入をポジティブに捉えるのは難しいかもしれない。現在は表面化していないが、日本も似た様な状況化にあると考えられる。
 銀行、郵便局、社会保険等窓口の違いは、他国籍住民との距離にある。外国人大学周辺等、他国の人間が多い場所では、銀行も郵便局も、窓口の状況は、滞在許可証同様である。社会保険等窓口はイタリア人が多く利用しているため、他国籍の人間は珍しがられ、逆に説明等をしっかりしてくれる場合がある。そして外国人があまり多く住まない場所では、郵便局も銀行も、ガラスやプラスチックで仕切られていない、対面式のカウンターが設置されているのである。
 環境管理型権力という言葉がある。

環境としてのアーキテクチャーが一種のパワーとして人問をその意図するところに沿うように動かし管理することを意味し、そしてまたそのような設備・システム(=ア一キテクチャ一)が我々を囲繞する状況でもあるのだ。このことは、設計次第で人々の行動を制御することができ、それ自身が支配の権カになってしまうことを意味する。例えば、卑近な例として、マクドナルドの硬い椅子があげられる。椅子を硬くすることにより客の回転率を高め、動きをコントロールすることができる。あるいは、監視力メラ然り。このような、人問の行動を管理・コントロールするアーキテクチャーが、上記のようなセキュリティ意識の高まりの中で急速に二一ズを増し、実際に設置も増加しているのである。さらに、こういったアーキテクチャーが、マクドナルドの椅子の例のように権力もしくはコントロールされていると感じさせない、即ち無意識化されており、その上、特に昨今はIT技術をはじめとする先端テクノロジーによって精緻化が進展し、それがセキュリティを第一の目的として機能しているのである。

このセキュリティと同じコンテクストで、「排除」という観点からのアーキテクチャーも非常に目立つようになってきている。ゲイテッド・コミュニティーやフィルタリングといった技術も「排除」という機能を果たすが、それら以外にも「排除」の為のアーキテクチャーが顕著になってきているのである。一例として、各地にある手すりをつけたベンチ(図1・2)や、新宿駅西口の地下道に設置されている円筒を斜に切った形のオブジェ(図3)などが挙げられよう。これらは一体何を目的として設置されているのであろうか。「新宿西口」ということで既に明白であると思うが、言うまでもなくそれはホームレスの排除に他ならない。

 ひとたび日本国外に出れば、僕は異邦者である。例え自国で大学を出て教養を積んでいたとしても異邦者は異邦者で、「常識」は通じないもの、とされる傾向にある。またその相互理解のための言語能力を客観的に量る機械等ないのだ。担当者が言葉で説明し、書面で説明したとしても、言葉の文化的背景が理解できないがために齟齬が生じる可能性がある。前提条件が揃わず、双方、もしくは多数の立ち位置が異なり、それでも時間内に一つのことを漏れなく行わなくてはならない状況は、ある意味で危機的状況でもある。事務手続きを円滑に行うための処置と考えれば、業務を単純にし機械的に行い、環境そのものに権力を組み込むのも一つの打開策ではあるのかもしれない(最良というわけではないが、書面が発行されない状況が最悪と仮定)。
 僕は壁の向こう側に入ったことがある。時々壁のこちら側に担当官が出て来ることがあるが、中に入れるのは稀である。奥さんの妊娠中、滞在許可証に不備があった。訂正書面を受け取るために赴いた時、透明プラスチック窓越しに手招きをしている女性担当官がいた。「とりあえず中に入って」と、通用口の鍵を開けてくれた。混沌とする場を尻目に、僕らは内側に入った。手に滞在許可証を持って女性担当官が小走りに近寄って来た。「間違えちゃって、ごめんなさい」と最初に謝り、「いつ、産まれるの?産まれるのは男の子?それとも」と奥さんのお腹に興味を示していた。「男の子ですよ。今7ヶ月ですから、もう少し」と答えると、「きっと元気な子よ」と微笑んだ。そしてその周囲にいた担当官達も、壁越しに見る彼らとは違い、非常に穏やかで、「今日も凄い数だな」とちょっとうんざりした様な顔をしていた。一通りの手続きが終了すると女性担当官は壁の外を一瞥して「向こう側は酷い状態だから」と、関係者通路を開いてくれた。僕らは「Grazie!!」と言ってその場を後にしようとすると、他の担当官もウインクして応えてくれた。
 彼らもきっと怖いのだ。文化や国籍が違い、自分達の常識やマナーが通じない相手にどう接して良いのかわからないのだろう。壁の内側にいるのも外側にいるのも、同じ人間である。違うのは文化的背景である。ルールを守るにも意味が伝わらなければただの文字の羅列である。例えばそれは同じ神を信じていても、作法が違うだけでいがみ合う様な、些細な、それでいて根が深い差異である。
 窓口に立つ時、この壁が無かったらどれだけコミュニケーションがスムーズに行えるのだろう、といつも思った。しかしその窓口がなかったら、僕は僕の順番を平穏に待つ事も許されなかったかもしれない。何よりその窓口があったからこそ、自分が窓口に立っている間、自分の書類の申請時間は確保されている、という安心感もあったのである。
 透明な壁は全ての戦争の根源を繁栄していると言っても良いのかもしれない。透明であるがために、歯痒いのだ。見えているのに、何故?と。わかっているのに、と。人と人の間にも同種の壁があるのだろう。こんな問題は叙情的に語るべきじゃないのはわかっている。が、その壁を壊すも強化するも、結局の所論理ではなく人間の感情なんではなかろうか。