apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

1日1回パルプンテ→しかし何も起こらなかった

人生に必要なことはRPGから教わったより。
ゴリラブーツさん経由。

エアプランツ 2008年3月18日 19:56
1日3食しか食べずにRPGをしたり、夜しか眠れないくらいRPGに嵌った時期もありました。
人間関係に行き詰まりそうになっても、RPGに「道」を教えてもらってきました。

「ぬののふく」と「ひのきのぼう」だけで社会に出た20年前、あれからどれだけのフィールドを歩いてきたことか。
どれだけの「敵」と戦ってきたことか。

結婚してパーティ編成がすごいことになったり、最初に買った「青銅の鎧(肩パットスーツ)」が捨てられなかったり。
大事なものを捨てそうになって「それを捨てるなんてとんでもない」と気が付いたり、公園デビューとやらで「仲間になりたそうにこっちをみている、仲間にしますか?」で「はい」と即答したり。

防具も不十分なのに役員会(洞窟)に入ってしまったり、ボスに話しかけても返事がなく「ただの屍のようだ」と思ったり。

動く前に「ガンガンいこうぜ」なのか「いのちだいじに」なのか考える。
武器より先に防具を充実させることが大事だと気付く。

人生ってなんてRPGなのだろうと思います。
人生に行き詰ったら、RPGで考えませんか。 人生はRPGそのものさ

  ゲーム育ちは人生をリセットできると考えている、と自殺する人間をゲームの所為にした方々がいたが、未だに香しいのだろうか。
 以下は正にRPG的な回答。

ろざりー 2008年3月19日 19:03

ボスキャラ戦になるならその前にしっかりとザコ戦。
経験値を稼いでおく。
これ鉄則。

わからない時は何度も村人にきく。
もう一度戻ってみる。
地図を自分で書く。

全滅する前にしっかりと回復。
コマメなセーブ。

橋が見えるけど展開としてはまだ渡らない。
渡るとすごい敵が。
しっかりと準備。

もどる勇気も。
でも勇気を持ってどんな運命にも立ち向かうこと。
勇気をもてば誰もが勇者。

子育ては勇者育て。
ゆっくりじっくり。
時には勇者の母になって子どもを送りだし、宿屋になってお帰りという。

時には遊ぼう。
家事の、じゃなくてカジノでたまにはね。
でも熱中したらだめだめ。
お金は大事。
しっかりネネに預けよう。
そして祈ろう。

パーティーはバランス。
「いのちいのちだいじに」もたまにはいいし「おれにまかせろ」な主婦が一番元気かな。

これこそ人生RPGでしょ。

 RPGが教えてくれたことで、一番重要なのは「手っ取り早くない」ということ。地道にレベルを上げないと先に進めない。裏技を使いレベル・装備最強になったところで、時間をかけないと物語は読めず、ゲームを楽しむことができない。
 またロールプレイという決まり毎の中で、自分なりに物語を解体し再構築する、という楽しみを教えてくれた。メインストーリーに、ゲームプレイ上直接的な影響を及ぼさないサブストーリーの存在を際立たせてくれるのもRPGの特質だろう。要するにゲームクリアという目的意外に、ゲームを楽しむ要素が散らばっている。結果的にネットワークゲームに発展し、ゲームクリアというものがなくなったオンラインRPGは画期的だった。TRPGの存在も見逃せない。僕はソードワールドルールでプレイしていたけれど、TRPGの自由性はオンラインRPGのプロトタイプと捉えても良いのだろう。
 しかしRPGを楽しめる人間は限られているとも感じる。「長ったらしい」「面倒臭い」「先に進めない」。根本的にゲームが嫌いなのかとも思うが、そんなことはなくシューティングだったりアクションが好きだったり。陸上競技の様に、向き不向きがあるのだろう。マラソンか短距離か、幅跳びか高飛びか。ゲームを楽しめればそれで良いと思う。ゲームを楽しめない、ゲームをプレイしたこともなく否定し続ける人間は狭量だとも思う。どちらかと言えば人間の価値は「無駄な事」を本気でできるかできないか、だと思っているから。もちろん「無駄な事」の範囲が最も大切な部分なのだが。
 凶悪犯罪が相変わらずゲームと結び付けられる。茨城の通り魔の話。ゲーム脳の恐怖だそうだ。安直にゲームに結びつける思考停止自体がゲーム脳だと思うのだが、人はロールプレイ(遊び)という行為無くして成長できない。オウム返しから言語の習得が始まり、行為のロールプレイへと繋がる。3次元か2次元の差にしても、おかあさんと一緒に反応しない子供は少ないだろうし、絵本に反応しない子供も少ないだろう。問題にするべき点は媒体がリアルか仮想かでもないし、殺人の動機でもない。指名手配中でありながら、犯行予告まで出し、行動に至った人間を止められなかった警察が問題なのだ。結局の所、警察という組織は事前に犯行を阻止できる所ではなく、「犯行後のお片付け班」ということを露呈したに過ぎない。ちなみに犯人の部屋にはゲームソフトが10本、漫画本が100冊。それでゲーマー認定は少ない方だと感じたのは僕だけではあるまい。
 物事を何かの所為にしない、というのはRPGをやっていれば誰でもわかる事実である。キャラクターが戦闘不能になったのは、自分の準備不足か、それとも戦闘方法に問題があるか。ゲームが先に進まないのは、物語を進める上で何かを見落としたから。誰かの所為にしたところで、ゲームは先に進まない。そういう意味では偏った自己責任論に陥る傾向にあるのかもしれないが、自分を肯定するために何かの所為にしたところで根本的な問題解決にならないことは学べるのである。
 RPGにおいて、自分から他人に話かけない限りコミュニケーションは始まらない。穿った見方かもしれないが、自己主張ばかりで他人を蔑ろにする人間は、RPGでもプレイしたら良いと思う。空気を読む、を学ぶのではなく、相手が何を考えているのか、まずは自分から尋ねるという姿勢が大切なのだろう。時々「機嫌が悪そう」だから、「自分も気分を害した」と言う話題があるが、本当に機嫌が悪いのか、それとも体調が悪いのかは質問しない限りはわからない。「自分も気分を害」する気になったら訊けば良いだけのことである。言わなきゃわからない、とはね除けるのではなく、まずは訊く姿勢があるかないかという自問もまたコミュニケーションにおいて大切なことだろう。
 人生はRPGそのものである。それも復活の書のないRPGであり、完全クリアのないRPGでもある。魔法かとも思える様な偶然性や、技術があるし、スキルやアビリティは経験を積めば向上していく。またゲームはワンプレイヤーだったが、人生はマルチプレイの相関に依ってパーティやフィールドが変化するという未知的要素があるが、それも今やオンラインRPGは反映された構造を呈している。ロト装備が揃わなくても、勇者であり続けられるのが人生なのである。