apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

それがユビキタスなのか、それとも重力に魂を縛られた人間なのか

ゴリラブーツさんより。
嘘が多い友達のブログ

10年ぐらいの付き合いの親友についてなのですが、
その親友がブログを書いています。
いつもランチするときは、目の前でブログのネタ作りに夢中。
例えばお店に入って料理が入ってくるとすぐに写真撮影。
私はこれがあまり好きではありません。
彼女はネタ作りのために私に会っているのかな・・と疑問になることも
あったりします。

 生活にブログが密着していると言えば聞こえは良いが、他人にとってその生活が普遍的でなければ真のユビキタスとは言えないだろう。携帯電話依存も似たような構造なのだろうが、要するにユビキタスという言葉はその言葉の深度が曖昧過ぎるのだ。
 ツールに依存することと、使いこなすことは根本的に違う。無ければ生きていけない、と無いと多少不便だ、では違う。何よりユビキタスの語源から考えるに、意識して使用している間はユビキタスとは言えない。
 今さらユビキタスを強引に持ち出して、何にひも付けしたいのかと言えば、要するにブログってのは未だにあって当たり前の存在にはなっていないんだな、ということである。世代論で括れる所があるとすれば、携帯電話(もしくはPC等のネットツール)が当たり前の用に普及した世代と、それが普及する以前と普及し始めた世代では、携帯電話の捉え方がまるで違うだろうと思われる。コミュニケーション視点で入れば、家電話→家電話と、携帯→携帯での、間接、直接での距離感がまるで違うだろう。同様にブログやSNSもまた性質が異なってくるのだろう。
 気になるのは、幼少期にコミュニケーションツールに触れ、ブログを選ぶのかそれともSNSを選ぶのかである。憶測だが、多分両刀使いとなるのだろう。学校用SNS、外部用ブログと。そしてそれを使おうが使わなかろうが、日常のコミュニケーションには支障をきたすことはないのだろう。例えば僕らにとってのファミコンがそうであった様に。