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最近は写真日記。

逃げるとは戦うことだ、の適切な例

逃げ方、避け方、守り方 - reponの日記

子供の頃から

  • 社会には多様な人間関係があること。一つの人間関係に代表などされないこと。
  • 人はどこにでも意志さえあれば動くことが出来ること、その意志は育てなければ生まれないこと。
  • 世の中には原因の分からない宛先不明の理不尽きわまりない暴力がそこら中に落ちており、時々それにぶつかってしまうことがあって、そのときはそこから逃げること、避けること、自分の身を守ることが大切だと言うこと。
  • そして具体的な身の守り方。

などを教えてあげなければいけない。

逃げ上手は生き上手

1. 現実を変える
2. 自分を変える
3. 逃げる
これは難易度順でもある。最も難しいのは、現実を変えること。次に難しいのは、自分を変えること。そして最も簡単なのは、逃げること。

 一連の記事を読んでいて頭に浮かんだのはSACの少佐の言葉。

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と眼を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ。それも嫌なら…」

 ここでの孤独は完全なる沈黙という意味で、集団内での孤独やひきこもり等とは違ったもので極端な例ではあるだろう。映画「カッコーの巣の上で」の精神病院の中で、患者のフリを続けながら生き続ける(詳細は覚えていないが)男が当てはまるのだろう。SACの中で同様に笑い男授産施設に身を潜めている回があるが、その中で笑い男はShould I?と自問しており、カッコーの巣の上でを彷佛とさせるものだった。
 そしてSAC.SSSでの少佐の言葉には戸惑いがある。

「私は何に達観していたのかしら。何を探してネットを彷徨って居たんだと思う…?真理、知己、それとも特定の誰か…。もしかしたら自分の非力さを、組織やシステムのせいにしていただけなのかしら」
「規範の中に居るときは、それを窮屈と感じるけど、規範無き行為はまた行為として成立しない。結局堂々巡り」

 と自問している姿は、まるで笑い男そのものである。
 本題はそんなことではない。「逃げても良いよ。場やコミュニティから逃げることは別に格好悪いことでもないし、自分を守る選択肢だ」という感覚に対して異論はない。が、気になるのはその対象が家族だったならば、である。大概にして外にある場やコミュニティから逃げることは意見が別れがちだが、家族という内側の問題に関してはどちらかと言うと「唯一血の繋がった家族だから」という理由のみでその関係を強制される割合が多い様に感じる。ちなみに僕にとって育った家族は既に外側の問題だったわけだが、例えば僕の子供達は僕ら親を内側と捉えているかもしれない。何より逃げる事さえままならない年齢の子供だったならば、誰がその手助けをしてあげられるのだろう。
 児童相談所は、問題を知りながら指を加えているだけの役立たずだ。警察も(子供に対する)家庭内暴力を知りながらも、事件性が無ければ動いてはくれない。子供を産める=子育てができる、ではないということをまず共通認識として持つべきだろう。産むのであれば育てろよ、という自己責任は方向性が違う気がする。産んだは良いが子育てができない動物が見受けられる様に、人間にも同様の状況があり得ると考えても問題はないだろう。だったら産むなよ、と批判があるかもしれないが、実際の所産んでみないとわからない問題でもあるのだ。換言すれば生きてみないとわからない、ということでもある(ここでは自分が親として生きられるか否か)。以前子育ての資質でも言及したことがあるが、親子間でコミュニケーション不全を起す事は双方の成長過程において必要不可欠と考えられるが、そのハードルまで辿り着けない関係もまた想定するべきだろう。その先がけとなったのが、相変わらず批判の多い赤ちゃんポストだと思われる。
 要するに親や家族から一時的にでも避難できる場所が圧倒的に欠如している。核家族化が進み、他家族間のコミュニケーションが希薄でも実生活に支障をきたさない程便利になった世の中で、削ぎ落とされてしまったものがその部分だろう。僕の幼馴染と幼少時の頃を書いた事があったが、子供にとっての逃げ場はいつでも親や家族とは限らず、ある意味一番逃げたい存在が親や家族という血の繋がりだったりもするものなのである。そしてある意味その関係だけが、逃げても逃げても「しかし逃げられなかった」と、逃げられない戦いでもあるのだろう。