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最近は写真日記。

それがイタリアです

 イタリア:内実は傷だらけの“外見重視”の国より。

「彼は専門知識については抜きんでていた。だが、外見に対する注意が欠けていた。たかが外見だが、イタリアでは伝統的にそういう部分も含めて、人間が判断されるのだ」

 逆オリエンタリズム、だろうか。確かにイタリアの景観を映像で見ている限り、美しく感じる。が、実際はその外見さえも薄汚れ、未舗装の道には犬の糞が散乱していたりするものだ。日本の耐震基準では許可されない様な建築物ばかりで、外壁もボロボロなら、内装は時代を感じさせる。
 それを美しいと感じ“外見重視”とするか、GDPの数字通り危機的状況と取るかが一つのボーダーと成り得るだろう。
 「イタリア、綺麗ですよね」という言葉を聞く。景観だけではなく、その文化を含めて、「綺麗だと思う」という。ギリシア・ローマを発端とするヨーロッパの源流が根付いているからだろうか。それとも袂を分かった米国に一時期でも支配されたことがあるからだろうか。それともヨーロッパ近代を輸入したがための残留思念なのか。
 それでは日本は外見重視ではないのだろうか。ヒゲを伸ばしていれば社会人としての常識が欠けていると言われ、スーツを着ずに平日街中を歩いていれば多少訝し気な眼で見られる。実際の所、日本もまた外見重視の国ではあるが、平均的な外見を重視する傾向にあるのだろう。そういう意味でユニクロというブランドは、アパレルの平均値を具現化したブランドと捉えても良いのだろう。「ユニクロでも買える」という言葉が、それを証明しているといえる。
 ペルージャに住んでいる時、スーツを着たビジネスマン風の人間は近寄り難かった。また学生はジーンズにスニーカーが基本だった。一つ言えることは男性であれば「ジャケットを着ている」ことが、外見に気を遣っているのラインであった気がする。パンツはジーンズでも良いが、靴は革靴である。そして女性であれば化粧の使い分けが眼に付く。。そして言ってしまえば彼らの外見への気の遣い方は、僕にとっては気を遣っているとは感じられなかった部分でもある。
 イタリアはイタリア病という本が出る程に、政治・社会的見地からすれば、外見も内実も病に蝕まれていると捉えられるだろう。また過去の遺産(観光収入等)にあぐらをかき、その遺産さえも後世に残していける様な努力(メンテナンス)がされていない。しかし旧態依然とした政治体制と、将来性のない経済状態でも、イタリアはある意味において日本人にとっては「綺麗な町」としてあり続けるのかもしれない。根拠のないノスタルジー、とでも表すべき哀愁。それこそが日本人にとっての、イタリアの存在価値なのではなかろうか。