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最近は写真日記。

継承可能性が格差を支え、機会の平等が格差を是正する

 asahi.com - 国立大授業料、私大並みに 財務省、5200億円捻出案が発端記事。
以下がブクマにあった反応の一部。
 Thirのはてな日記 - ついに教育にも「自己責任教」が蔓延り始めましたか...

教育とは教育を受ける人間個人のためだけにあるものではない。社会に優秀な人材を還元し、様々な社会活動を支える優秀な人材を輩出するために存在するほか、企業で行うことは難しいが一方で非常に重要な意味を持つ基礎研究を担う人材を創り出すために存在する。即ち大学で人材を育成することはその個人のためだけでなく社会にとって有益であることだし、そうあるべきものである。
また、大学が格差の再生産を防ぐ機関としての役割を担っていることも忘れてはならない。優秀な成績さえ収めれば大学に進学することが出来、一定水準以上の大学に進学すれば、それなりの生活は保障されるという、偏差値主義社会の一面は、貧乏な家庭に生まれても学問さえ修めれば親から格差を遺伝されずに済むことを意味している。昨今は予備校もスカラーシップ制度を用意する時代であるし、また参考書とインターネットを駆使すれば予備校など行かずにも自ら学問することが可能である時代だから、格差からの脱却を行う上で大学の担う役割は大きいだろう。
こんなふうにするなら、学費免除制度を制度に標準的に組み込ませ、家庭の年収に応じて学費を変動させる制度を導入した方がよっぽどマシである。
本来子供の教育は社会全体が担うべき事であった。それは子供が次世代の社会を担っていくことを考えれば、至極当然のことである。しかし今はどうだろうか。教育でさえ受益者負担の原則が叫ばれているのが現状である。一方では「昨今の若者は」といいつつ、一方では「自分の教育の面倒は自分で見ろよ常識的に考えて」という自己責任主義が蔓延る。彼らは本来社会が担うべき責任を若者に転嫁し、自らの責任を転嫁した先としての若者を彼らは批判しているのである。しかし若者に対する責任転嫁は何も産まない。我々は今、教育と人材は社会全体の財産であることを再確認し、若者は我々の鏡像であることを今一度認めなければならないのではないだろうか。その責任は、果たして若者に対して投げつければ、全てが丸く収まるような類のものなのだろうか。

 高等教育に税金を投入することは、格差の拡大につながらないか?

高等教育を受けなかった人は所得が(平均すると)低く、高等教育を受けた人は所得が(平均すると)高いのは事実です。
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また、所得はその人の生み出す付加価値を反映する(*1)はずです。教育に投じたコストを上回る付加価値(=所得)をその人が将来産み出せないのであれば、社会全体の利得を考えたとき教育はしないほうがいいということになります。ですから、教育のコストを受益者が負担することになれば、社会全体の利得と個人の利得が一致する(*2)ことになります。いわゆる底辺大学では、高卒より求人倍率が低いというのは普通にある話(*3)ですね。そんな大学は本当に社会に必要なのでしょうか?市場の原理を導入することにより、過剰な大学の乱立を淘汰する必要はあると私は思います。個人的には、現在の日本の大学進学率は高すぎると思います。
税金を投入すべきところは、「市場の失敗」がある部分、つまり、フリーライドが可能である「基礎研究」だと思います。基礎研究に投じる資金はもっと増やすべきと思います。優秀な研究者がつくポジションがあることは非常に重要です。「金にならない」研究をしている研究者にも、ポジションと研究費、そして個人所得を確保して、市場の失敗をカバーする必要があると思います。

 幻影随想: 私が博士課程に進学しなかった理由では、博士課程進むリスクを具体的に分析している。
 まず発端となった記事を読んで、正直唖然としてしまった。ただでさえ日本の国立大学の授業料は高いのに、それに上乗せして儲けようという算段が解せない。本来であれば学び舎に必要なのは設備投資ではなく、学びたいという志しだろう。
 もちろん就職斡旋としての大学の位置も認識はしている。であれば学問的投資よりも利益を追従し、具体的に社会に貢献する、という方法もわからなくはない。ある意味ただの就職斡旋場としての大学であれば市場競争の中で淘汰されるべきだとも言える。が、それはあまりにも愚かで安直な全体化であり一般化である。僕は「であれば」では無く、「だからこそ」と繋げたい。
 就職斡旋としての大学として認知され、学問研究がおざなりになっている。しかし中にはやっとの思いで大学に入った者も少なくはない。経済的問題だったり、例えば親元から離れられない理由(親や家族の面倒を見るとか)だったり、学力や経済的理由だけに依らず、「いわゆる底辺大学では、高卒より求人倍率が低いというのは普通」だとしても、学びたいという意志の為だけに、大学に入るのだ。だからこそアカデミアとしての存在意義の為に、社会を批判する客観として、経済市場の中に迎合してはいけないのではないか。そう思うのである。
 格差の話に目を向けると、Thirさんがしっかりとまとめている。

大学が格差の再生産を防ぐ機関としての役割を担っていることも忘れてはならない。優秀な成績さえ収めれば大学に進学することが出来、一定水準以上の大学に進学すれば、それなりの生活は保障されるという、偏差値主義社会の一面は、貧乏な家庭に生まれても学問さえ修めれば親から格差を遺伝されずに済むことを意味している。

 逆にandalusiaさんは、日本の大学進学率の高さや過剰な大学の乱立を淘汰する必要性から、ある部分において(授業料引き上げ自体に肯定なのか、一般的な教育自体のコストを税金で補填することには慎重であるべきで、高等教育の機会均等は、貸与奨学金での対応が適当、だけに肯定なのかは判然としないが)発端となった記事には肯定的である。が、職業斡旋としての大学の価値ばかりに主眼が置かれ、教育コストと社会全体の利益が論点になってしまっている。結果的に経済的観点からしか大学の存在意義を示せておらず、アカデミアが産み出す付加価値が落ちてしまっている。経済的観点に即して言及すれば、利益を追従することが学問的領域ではなく、利益の根源を産み出す発想や創造の視野を広げてくれる素材が学問なのだろう。
 そして大学はThirさんの指摘の様に機会の平等の場を与えてくれる。格差、もしくは階層社会という言葉は、ここでは特に職業階層を示すものだろう。社会階層というものは、財を得る機会の分配が平等に行われない状態を示す。大学という機関はその機会の平等を社会的に示す役割もあり、意欲次第で大学に入学できるという現状が、親子間の職業階層の継承可能性を下げている、と言っても過言ではないだろう。
 また本質的な社会階層の問題点として、その「意欲」の有無こそが格差である、という議論がある。つまりは社会が階層化しているという捉え方より、文化資本に依る文化的階層が生まれている、というものである。大学教授の息子に与えられる環境は、例えば僕の様な果物屋育ちに与えられる環境とは異なる。職業階層により貯えられた文化資本こそが、結果的な階層をもたらす原因足り得るということでもある。つまりは「やれば格差から脱却できる」という意欲からさえも脱却するという現象が起こり得るのだ。
 当初の問題に立ち返るならば、国立大学の授業料は無料が望ましい、と僕は考える。道路ばかり作るのが税金ではないだろう。が、現実的に考えて消費税を上げても、今の日本の懐具合を見る限りそんな余裕はない、どころか借金を返済できるかどうかさえ疑わしい。であれば、イタリアの大学がそうであった様に、もしくは先進国の大学がそうである様に、所得差に依った授業料の変動が望ましい。

学費免除制度を制度に標準的に組み込ませ、家庭の年収に応じて学費を変動させる制度を導入した方がよっぽどマシである。

 というthirさんの良識が、ある意味先進国ではスタンダードな意見だろう。
 そして何よりも本質的な問題として、学問を金もうけの道具としてしか考えられない日本は、危機的状況にあると考えられる。幻影随想に分析される現実には、学問を続ける事が経済難民の入口である、と示されている。学問を蔑ろにしては未来はない。学ぶ者から搾取しようとする考えこそが、既に未来が無さそうだが、アカデミアだけは学ぶ意欲のある人間に対して平等に、その機会を与えられる場所であるべきである。