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最近は写真日記。

日本人がNoと言えず、Yesマンと言われる原因が何となくわかった

 イタリアに住んでいる時の話。イタリア人の同居人が結婚し、子供が生まれた時、何とも可愛らしい話を聞いた。フランチェスコという名の男の子は当時1才と5ヶ月程だった。彼はいつもピッティと言う名のクマのぬいぐるみを可愛がっていた。ある日の事、あまりにもピッティが汚れていたので親が洗濯をしようとしたらしい。もちろんぬいぐるみなので、洗濯機ではなく、シャワーで手洗いするつもりだったらしいが、その場に居合わせたフランチェスコが“Pitti, doccia no!!!”(ピッティはシャワー、ダメ!)と突然泣き出し、シャワーに濡れたビチョビチョのピッティを抱き寄せ、机の下に隠れてしまったという。フランチェスコがシャワー嫌い、という話の延長線上で聞いたエピソードだったが、視点を変えてみると面白い事に気が付いた。
 僕らが英語を習う時にまず一番最初に覚えるのが、YESとNOである。そして他国の人が日本語を覚える時に、やはり気にするのが「はい」と「いいえ」でもある。もちろん僕がイタリア語を学び始めた時に覚えたのも“Si”と“No”だった。
 僕には2人の子供がいる。言語を習得していく中で子供達が真っ先に覚えたのは「はい」と「いいえ」ではなかった。どちらかと言えば「はい」という言葉の習得は早かったが、「いいえ」に関しては未だに発したことがない。変わりに否定の態度を示す時は首を横に振るしぐさをする。
 日本人が“YES”マン、と呼ばれ、“NO”と言えない日本人と言われる因子は、日本語の特性にあるのではないだろうか。中学の英語の授業で習った様に、疑問形は全てYesかNoで答えられ、What等の疑問詞から始まる問掛けには理由を答えれば良い。が、日本語は肯定も否定も統一されていない。例えば子供に牛乳いるの?と聞く。子供は「はい」と答えるより、「いる」もしくは「欲しい」と答える。否定であれば、「いらない」と反応する。英語であれば、Do you want to drink milk?(milk?と日常でははしょられるだろうが)でYesかNoで答えるだけである。
 何より言語未習得の子供が文章を発する時に、Noという言葉は色々な動詞や名詞と相性が良い。先程の“doccia no”もそうだが、Yesという言葉よりもNoという言葉の方が使い易い。逆に日本語では文章を作った際に「はい」という言葉の方が万能である。ジュニアが「電車、はい」と持ってくることはあっても、「電車、いいえ」と持ってくることはない(この場合、うちでは「ないない」だが)。音声学的側面もあるのだろう。「はい」と“No”の発音と、「いいえ」と“Yes”の発音の難易度では後者の方が難しいだろう。
 要するに日本語においては肯定語は「はい」で統一することができるが、否定語に関しては「いいえ」では統一できず、その度に返答を変えなければならない。結果的に「いいえ」という言葉の重要度が下がり、他言語(ここでは英語かイタリア語)を習得した時、Noという言葉の重要性が不明確になってしまうのではないだろうか。つまり「いいえ」と名言しなくても、他の言葉で代替できる、という思考が、最終的にNoという言葉への抵抗を生み出す要因になるのではなかろうか。
 Noと言えない日本人は、Noという言葉の使い方を知らないだけである。Yesを連呼してしまう日本人は、相づちの「はい」と勘違いしている節もある。思い付きの内容だが、本質的にもそんな感じかと思う。