apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

ノードはevery、リンクはtimely

 相変わらずSNS/クローズドコミュニティに抵抗がある。先ず第一に広がりがない。最初から範囲(レンジ)が限定されている時点で、そこで何かを書く楽しみが僕には理解できない。第ニにクローズドコミュニティは、より小さいクローズドコミュニティを産む。範囲が限定されている以上、その中で小さくまとまるしかない。第三にその小さいコミュニティの中でも公開、非公開設定があり、より小さいまとまり産んでいる。
 僕がブログを始めた理由はその逆だ。イタリア、ペルージャという限定されたコミュニティの中で満足できなかった為だ。現実的(物質的・肉体的)に限られたコミュニティの中でも、より小さいまとまりが産まれ、人間関係がそこで完結してしまう。自分自身でそのコミュニティを選んでいるつもりでも、実は環境によって選択させられている、という事実を見逃してしまう。
 ブログ/オープンコミュニティも常連ができればそれに近いものはある。IPで判別もできれば、拒否もできる。設定次第でははてな内だけのSNSも構成できる。が、それは自由選択の余地がある、という意味でしかない。デフォルトではオープンである。デフォルトでサーチエンジンにかかるか、かからないかは、ネット上では大きな差である。
 そのコミュニティの構成がコンテンツに与える影響は大きい。SNSは読み手側を縛り、ブログは書き手側を縛る。特定に書く文章と、不特定多数に書く文章では、その文章を記述するかしないかの判断でさえ出発点がまるで違うはずである。
 僕は仲間とか友達という言葉に興味がない。ましてや自分からお友達設定を迫られる様なシステムに興味はない。残念ながら(誰に残念だか不明だが)、僕は実の両親でも興味がない程に薄情ものなので、人間関係に関しても執着はまるでない。それはどうしても繋がっていたい人は繋がっていたい、という意味では無くて、繋がっていたい人も、繋がっていたくない人も、結局は同じ、という類いのものである。実生活においても一期一会が基本になっている。繋がる時は繋がるし、繋がらない時は繋がらない。それで良いと思うのだが、クローズドコミュニティにおいてはその選択さえ余儀無くされている。
 要するに、一言で言えば、気持ち悪い。メール的一方的内容で繋がれる、選択されたコミュニティは、結局のところ馴れ合いでしかない。主婦の井戸端会議的な、日々の愚痴、ストレス解消的な。そこに楽しみを感じ得ない僕は、やはりクローズドコミュニティで、対象を選択して、サーチエンジンがひっかからない場所で何かを書きたいとは思えない。
 友達付き合いに五月蝿い貴族のYでさえ、違和感を示している。

mixiをやめた一つの理由である。
mixiの特徴でもあるのだろうけど、僕はこれが馴染めなかった。
何かを書いたところで、足跡を気にしてしまう自分がいた。
そして、気にするが故自由に書けなくなってきた。
逆に自分が残す足跡も気になるようになった。
自分が残した足跡で、足跡がやってくる。
気持ち悪い話しである

 それを人間的繋がりだと勘違いできれば面白いのだろうが、僕はそこに人間の矮小さを感じるだけである。人間を選択できる程に僕は身の程知らずでもないし、足跡を気にしながら文章を書く様な閉塞感が気に入らないから、ブログを書いているのだ。

ネットは広大だわ。なのに、人は半径ワンクリックの外にでようとしない

 そういう言葉が有効な世の中になったと思った次第である。