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最近は写真日記。

人間関係における諸前提条件:リスクと嫉妬の関係

「嫉妬とは,自信のなさだ.相手にとって自分が最も大切な存在だという自信があれば,嫉妬する必要なんかないからだ」

 彼氏・彼女をどれくらい拘束するかより。
 空気を読め、とふられたので反応してみる。それもベタに応えてみたい。僕たち夫婦は他に比べれば「拘束されている」と捉えられるだろう。が、その際に何を「自由」とするか、何を「拘束」とするかで随分と見方が変わってしまう。
 僕たち夫婦間では全てが共有である。経済部分での共有は一般的(もちろん夫婦間での経済的自立を前提としている関係も認識しているが)だろうが、PCメールのみならず、携帯の電話応対や、メールの返信、人の対応まで、どちらかができれば良いと考えている。外に対して個人で対応する、というよりはファミリーで対応する、ということがメインになっている。もちろん内では個人が活きているので役割分担はまるで違う。滅私奉公的な雰囲気があるが、最初からそうあったわけではなく、生活している内にそうなった、という関係性である。外から見れば善し悪しがあるが、内にいる分には役割分担が明確で、自分にとってはベターな生活を営める運用になっている。例えば僕は面倒臭がりだ。携帯に着信があっても、メールがあっても放置することが多い。それに奥さんが気がつけば勝手に対応をしてくれる。PCメールに関しても同様で、人間関係のプライオリティを上げてくれているのは奥さんの存在である。まずその関係を「拘束されているな」と見るか、「自由だな」と見るかで、絶対的自由か相対的自由かの重きが変化するだろう。

「嫉妬とは,自信のなさだ」

 と嫉妬を仮定した場合、僕ら夫婦にとってはある意味的を射た言葉と成得る。もうネタにしかならないが、僕は自分が育った家族において「愛されている」と実感したことがない(なかった)。妹ができた頃、その感覚が最高潮に達し、小三にしてストレス性の十二指腸潰瘍を患った。それが一つの転換期だったと思う。「愛されている」を分散して管理すれば、一つ所に求めずとも良い、と考え出した。なぜ「愛されている」と感じなければならないのか。寂しいからである。寂しさは嫌いではないが、コントロールが苦手だ。ちなみに寂しさと孤独はまるで違うものだ。孤独は好きだし、孤独をコントロールすることによって自分を高めることができた。(※ここで例として提出したいのは、愛されなかった、だから家族を恨んでいる。僕は不幸だ、だから寂しい。という思考停止ではなく、結果的に手に入れた生存方法である)
 「愛されている」を求める寂しさのコントロールは僕の課題でもあり、それに伴うリスクが問題だった。リスクとはつまり、「愛されている」を求める寂しさのコントロール不全であり、結果的に自分の身体を壊す危険性でもある。ストレス耐性、という言葉があるが、精神的には平気な顔をしていても肉体が付いてこない場合、何を鍛えれば良いのか不明である。僕も奥さんもこのタイプで、平気だと思っていながらも身体を壊す。そのリスクを分散し管理する方法が、僕や奥さんにとっての「牧場」と言われるものだった。(※奥さんの境遇は僕とは違うが感じ方は似ている。差異があるとすれば、距離感を保ちながらでも家族と繋がりを保とうとする奥さんと、ネタとして用いながらも実生活においてはまるで切れている僕とその家族、という関係性である)
 ケンケンとその彼女にあっては、異性に対して友情を感じるかもしれない(友情という概念が甚だ疑問なのだが)。しかし僕や奥さんの場合、異性に対して純粋に友情を感じ得ない。例えば奥さんは「どちらか片方には友情があると思う」と考えており、僕の場合は友情ではなく駆け引きだと感じてしまう。人間、というよりは異性が前に出てしまい、それを意識する傾向にある。(※但しそれは異性のみならず同性に対しても違う形で働く意識ではある。なぜ、この人は「僕」に連絡をしてきたのか、ということを考える傾向にある)
 ポジティブに捉えれば、人間としても異性としても、「僕」でなければいけない理由があるからだ。が、ネガティブに考えれば「僕」でなければいけない理由があるからこそ、結果的に面倒くさいことになる、という先回りが働く。そのネガティブ度合いは結局のところ先述の「自信のなさ」に由来するものなのだろう。
 ある時、そんな自分を壊したくなった。「牧場」を解散しよう、リスクを一括管理にしたらどうなるのか、今までの自分を変えてみよう、そう思った。寂しさと向き合う、という叙情的な取り組みではない。単純に自分の枠組を取りたかっただけである。結果的に僕は結婚をした。全否定していたものを取り込めた。おまけにパートナーとなった奥さんとの相性は抜群で、人間関係に対する姿勢はお互い似ているものだった(善し悪しは別として)。何が変化したのか。個人的なつきあい、というものは多分に減ったと思う。が、家族というユニットをもって接することによって、異性を別段意識しなくなったのは確かである。
 相対的には、個人の頃に比べて自由度は低くなっただろう。が、人間関係に対する絶対的自由度は増している。何度も書いていることだが、具体的には、個人の頃と比べれば人間関係の質が明らかに違う。それは裏を返せば、「僕」という個人でなければいけない人間づきあいは、僕がそのつきあいを限定していた結果だったものであり、個人の頃から家族を持った今でも続いているつきあいは、今後も発展の余地がある、という可能性を示しているのだろう。
 そこまでの前提条件を語った上で、当初の問題に立ち返る。僕たち夫婦はお互いを拘束しているか否か。単純に捉えれば拘束している。それは意識的、無意識的に関わらず(なぜなら現状お互いが縛られている、と感じていないからだ)。ポジティブに考えれば、ウィークポイントを狭めた結果、違う自由度が開けた、とも捉えられる。現状、異性・同性を含め食事に誘われたり、イベントに誘われた場合、ユニットはいつでも家族である。僕だけ、どこかに行く、ということは希少であり、強いて言うなら会社の親睦会くらいなものである。それを不自由、もしくは拘束と感じるか、楽だ、自由だと感じるかは人それぞれだろう。
 「拘束されていると感じる?」そう奥さんに聞くと、「いや」と即答し「もし、そう感じて、いやになったら、そう言うわ」と笑って付け加えた。僕らは自分の安定の為に異性を使った(この表現は僕だけにしか通用しないかもしれないが)。その頃の異性は、やはり異「性」でしかなかった。今にして、ある意味「異性」の良さを感じている。家族、というユニットでもつきあいが継続しているそれぞれの異性の友人にこそ、僕は友情という言葉をもってして接することができる気がするのだ。裏を返せば「結婚したから」という理由で繋がりが切れた異性の友人は、何が目的だったのか疑いたくなるくらいでもあるのだが。
 当初書いた文面からは、かけ離れた気がするが、言いたいことは同じはずだと信じたい。自分語りがうざったいほどにベタに反応(のろけにのろけか)してみたが、何かの足しになれば良いだろう。ある時期「愛は自己満足。恋は独りよがり。」と決めつけていたことがあったが、村上龍の影響があったのだろう。「愛されている」という自信、「愛している」という充足感は、結局リアルタイムでの相互理解が不可能だ。であればどちらも「愛している」「愛されている」という自己満足によって対象を認識することになる。それが愛、というものであればやはり自己満足ではないか。そしてお互いのバランスが悪ければ、結局は独りよがりじゃないか、と。実際はそうではない。それは結局「言葉」の上でしかない。その証明として「言葉」を無視して、僕は結婚をしたのだから(結婚がもちろん証明の全てではないし、意味があるわけでもないのだが)。言葉に捕らわれていた僕が、実行に移したということが、僕が奥さんを「愛している」何よりの証拠として提出できる、という意味合いはあるだろう。「結婚しよう」そう言ったとき、「愛している」か「愛されている」か問題ではなかったからである(ちなみにできちゃった結婚ではあるけれども、それより前にプロポーズはしている)。