apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

不見、不聞、不言→礼にあらざるものはry

結局社会は「イヤなことを言わないヤツ」で回るのではないかという仮説より。

さて、物事を成し遂げる効率ということを考えていくと、誰ともわからぬ相手にけんかを売る時間というのは、なんの生産性もないので無駄である。つまり、イヤなことはスルーするほうが効率的であると、優秀な人なら判断するだろうし、企業のような営利を追求する法人ともなれば、なおさらである。

ということは、この「イヤな一言」は、社会に対して何の効力も改善ももたらさないということになる。仮にその中に金言や教訓が含まれていたとしても、「言い方が悪い」というだけでスルーされる世の中になった、ということである。

イヤなことを言う側は、そもそも自分の意見を聞けというわけでもないのだろうし、一種の憂さ晴らしに過ぎないのだろう。だが、本当に自分の意見を誰かに実現して欲しいという段になって、嫌味でしかそれが伝えられなくなったら、たぶん一生その人の意見は顧みられることはない。

ものには言い方ってもんがある、というのは、今更ながらみんながもう一度意識しなければならないことであろう。イヤなことは全スルーがデフォ。

そして物言いがいい感じの人のところに有益な情報や人が集まり、ポジティブな空気の中で世の中をうごかしていくというのが、スマートな社会なんじゃないかな。

で、そこに参加できるかできないかは、その人の心がけ次第ということになるわけである。

 これも会社に入って学んだことである。非生産的な事言っていてもしょうがない、は正しいと思う。おまけに生産的に正解であっても、対象を不愉快にさせたら不正解、ということだろう。大人の階段を上りました。やっぱり大人って汚いって思います。どれだけ正しくても、使えない人間に「あんた使えないよ」って言うのは容易く、その使え無さを利用することは難しいが、会社組織としてはそれが正解だと思うのだ。同様にある職種においては効率的に仕事をこなしていても、実際はその仕事しかできない人間は、そのできる範囲内で上手く使うしかないのだと思う。

イヤなことを言う側は、そもそも自分の意見を聞けというわけでもないのだろうし、一種の憂さ晴らしに過ぎないのだろう。だが、本当に自分の意見を誰かに実現して欲しいという段になって、嫌味でしかそれが伝えられなくなったら、たぶん一生その人の意見は顧みられることはない。

 繰り返しの引用になってしまうのだが、取締役とかと会議をする様になって以上のことを学んだ。組織を変えるにはどう伝えるのか、どう交渉するのか、自分の意見をただただ垂れ流していては、例え正論だとしても賛同してくれる人がいたとしても、それは「交渉」という舞台では何の役にも立たない。「役職はスルーを覚える」という教えを受けたが、その背景には「本当に変革を臨むやる気のある人間は、それなりの交渉を挑んでくる」という期待の表れだということを知った。うちの会社は決裁書や報告書が3回はダメ出しを食らう決まり?になっているらしいが、1回で通った時はそれなりにモチベーションが上がる。
 社会人として、一般企業で働いて良かったなと思える部分があるとすれば、やはりこの部分は大きいだろう。言いたいことを言いたい様に言っている間は、「その人の意見は顧みられることはない」のだ。生産的に批判と代替案を提出できて始めて交渉の舞台に上がれる。そしてそれがスタートラインであって、全てではない。言いたいことを言うな、ではなく「ものには言い方ってもんがある」のである。ブーブを見てブーブと言っていては、2歳児にも劣る(赤子は交渉のプロだと思う)だろう。「仮定で話ができるかできないかが大人と子供のボーダー」と習ったが、発言一つでどう変化するか仮定できなければ成長は見られないのではないだろうか。