apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

The world is, up to you.

 「企業とは要するに人そのものです」的な理念が今の会社にある。その後に何行か言葉が続いていて、毎週月曜日に大声で唱和するのだけれど、派遣で入社した時はドン引きした事を思い出す。マーケティングとか経営とか勉強してみて、そこに書いてあることが至極経営学的だと気がついたのはここ最近なのだけれど、色々と考えてみると、企業だけじゃなく、世界も人次第、つまりは自分次第だと改めて感じた。
 僕が考古学の現場で働いているとき「調査員は全てにおいて秀でていないと舐められる」と言われ、作業員以上の仕事が当たり前の様にできる様になれと、来る日も来る日も鋤簾(じょれん)がけをさせられた。その後は移植ゴテ一本でとりあえず掘れ、その後は図面、その後は光波測定器、それに並行して実測、と作業員が行う仕事以上の結果を求められた。「一連の流れがわかったら、今度は写真だから」とカメラの使い方を教わり、35ミリと中判を持たされることになった。そこまでで2ヵ月位だったと思う。「分業ってのは、全てに関する知識があって初めて分業できるんだよ。そうして初めて人を動かすことができるんだよ」そう研究所の所長に教わった。それがイタリアに行く前の話。
 日本に帰ってきて一般職に就いた。といっても一応広告出版会社ではある。業界的にはそれなりに知識とスキルが求められる分野だろう…そう思っていたが、実際は違った。制作側は業界経験者ばかりでプロ集団である。が、営業側は出版どころかPCスキルもままならない人間ばかりで、紙媒体からネット媒体まで扱っている癖に「拡張子って何ですか?それはファイルに絶対についているものなの?それがないとどうにかなっちゃうの?」というレベルで自社商品の紹介も危うい。それでも彼らは営業のプロ気取りで、「この道20年のベテラン」と言われている。おまけに制作の上層部の人間も元々営業でしたという人ばかりで、「広域イーサのない、所謂一般回線を使用してリモート制作ができる環境で、手元の端末で制作をし一般回線で画像をサーバーにアップするのと、サーバーに広域イーサで繋がっている端末に別経由で(webファイルサーバーとか)送ってから制作のみをリモートで行うのとでは、後者の方が画像のアップロードに時間はかからないですよね」という話をしても、「結果的には一緒なんじゃないのか」と的を射ず、ワークフローも明確にできない。
 他の広告出版会社であれば、多分当たり前に出来ていること、当たり前に知っていることを知らない。間違いなく僕の制作スキルや知識は他社で通用しないだろうが、制作以外の人間はそれ以下なのである。「営業の仕方は習ったけれど、取材の仕方なんて研修してない」「この会社、営業会社だから」「広告出版の知識なんて、制作に任せておけば良い」「仕事がなくなったらオペレーターさんの仕事教えてもらうわ」要するにビジネススキル以上に、ヒューマンスキルが異常に低い。営業事務とDTPオペレーターではどちらが専門性が高いだろうか。どちらが取り替えの効く仕事だろうか。何より「教えてもらっていない」「任せておけば良い」という無責任具合が全てを表していると感じた。
 学生時代が長かった僕は、社会人から「学生、気楽だよな」的な言葉を何度か言われたが、彼らのイメージでは学生イコール時間があり責任感がない、という風にし捉えられなかった様子だった。まず生徒と学生は違う。方法を教わり課題を与えられる生徒と、方法と課題を自ら見つける学生とでは、その本質が違う。生徒は「教わってない」が理由になるが、学生が「教わってない」と言った日には無能であることの証明となる。それがわからない人間は社会人になっても、「研修してない」「知らない」「学生は与えられる人生で良い」なんて言葉を考えなしに言えるのだろう。ぶっちゃけ社会人になってみて、僕は気楽になった。なぜなら責任を取るべき組織が存在しているからだ。学生は自分で責任を負っている。その意識を持てるのは社会人では経営者レベルだろう。発見や発明の責任を負う、とは言葉で言うほど単純な重圧じゃないのだ。
 もしあなたがビックカメラに行って「このPCで何ができますか?」と販売スタッフに抽象的に質問して具体的な内容が返ってきたら、「わかっている人なら安心」と感じるだろう。例えば「中古でできあいを購入して、後々マザーごと入れ替えようかなって思ってます」と質問して「ああ、デルでなければいけるんじゃないっすかねぇ」なんて答えが返ってくれば、「筐体内の取り回しではどれが」と僕だったら話が先に進む。もしくは家やマンション、車を購入しようとしてその営業に色々と質問を投げかけてみたら「いや、営業なもんで、職人じゃないとわからないです」なんて人間がいたら間違いなく「わかる人連れて来て」となるだろう。
 言ってみればそんな状況である。それでも何も学ぼうとしない上に「商品クォリティを上げたいから、制作側でカバーして」といっそう無責任なことを言い始める。企業の体裁として一度上げたクォリティは落とせない。大切なのはクォリティを上げることではなく、保つことである。それすらもわからず他人のスキルに頼ることが当たり前になっていて、自分にはさも問題がなさそうである。商品のクォリティを上げるために職人に丸投げして、顧客が気に入ったから同じ様にその職人に丸投げしようとしたら、もうその職人はいなかった。そのプロセスも知識も何も蓄積していない。それで組織とか企業と言えるのだろうか。
 組織力とは、人「財」の結果である。それがつまり企業イコール人の意味になるが、その人がいつまで立ってもスキルアップしなければ、その企業はいつまで立っても変わらない。逆に企業を変えようと思ったら、まず自分が変わらないといけないのだ。人間関係や恋愛でも同様だろう。「あいつが」「あの女が」「男ってさぁ」と自分を顧みず、いつまでも人の所為にしていては何も変わらないのだ。いつまでも自分のブラインドを見ようとしない内は視野は広がらないのだ。何故その人間関係が結ばれたのか。何故その恋愛が終わったのか。客観的に自分を振り返ることのできない人間は何度も同じ事を繰り返すことになるのだ。そしてもちろんそれは僕にも当てはまることではある。
 そんな日常茶飯事を発展させると、結局世界なんて自分次第、という答えに行き着く。世界を変えるんじゃなくて、自分が変われば良い。そうすれば世界は変わる。なぜならその世界を「世界」にしているのは自分なのだから。その世界を「みんなの世界」と勘違いしているのは自分なのだから。僕が死ねば僕の世界は終わる。たったそれだけのことである。僕が生きるから世界は存在するのだ。世界に不満のある人間は自分を変えれば良い。企業に不満があるなら自分を変えれば良い。だからとりあえず僕は僕のできることを初めてみることにした。「変わったな」と言われることは、その結果だと捉えている。