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最近は写真日記。

筑紫哲也

 昨日、ドル円のスレを追っていたら「筑紫哲也が死んだ」という書き込みがあった。このスレの住人はユーモア溢れているので、提供される情報にあまり嘘がない。だから、そうか死んだのか、と自分で調べることはなかった。事実、やはり亡くなっていて、全ての指標を無視してドルが上に向かったのは筑紫哲也上げだから、というコメントが目に付いた。
 ニュースを見始めた時、ニュースステーションがデフォルトだった。高校くらいからニュース23に鞍替え。久米さんには政治色を感じなかった、というのが一番の理由だろう。当時は右だろうが左だろうが、政治学的、ジャーナリズム的な話が聞きたかった。筑紫哲也多事争論は当時様々な視野を提供してくれた。多事争論を聞く度に、自分が何だか頭が良くなった様な気がした。
 大学以降、WBSが基本になって、一般ニュースは全てネットになった。そのスタイルは今でも続いているが、最近ではマーケット情報ばかりに目がいってしまって、経済指標ばかりが気になっている。
 権力批判としてのメディア、特にテレビという媒体で真っ向から権力批判をしていたのは筑紫哲也だったんじゃないかと思う。朝ナマだったり、サンデーだったり、週に1度はどこかで誰かが批判をするが、Weeklyで、日々の出来事に基づいて批判をしていたジャーナリストはあまり思いつかない。
 左翼的で矛盾だらけと批判されがちだが、ある意味その一貫性の無さ、革新としての千変万化が左翼としての武器だったのではないだろうか。もちろんだからといって、何を言っても許される、というわけではないが、言い続ける、批判し続けるという継続性が一つの一貫性として成立するのではないだろうか。