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最近は写真日記。

風の歌を聴け:小説を書く理由

 ジャーナリズムの劣化が顕著である。最初に全文を訳したのはブロガーで、増田の全訳に至ってはwikiと同様の流動性を持って参照されている様子。人事院のメディアポストとか、ユダヤ資本に対する気遣いとか、そんなんだったらジャーナリストとか言うな、という話しである。

たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。

 多分各メディアの方々は「大々的に発信するな」と言われれば、「発信しない」し、「煽れ」と言われれば各社一斉に「煽る」わけで。2ちゃん以下だと思うよ、本当に。

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳を地上にもたらし、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続けることです。

つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。

 僕は村上春樹より村上龍の文章の方が好きである。村上春樹の物語はしっくりこない。嫌いだ、という部類でもある。が、今回のスピーチはわかり易い。村上文学が高尚的扱いを受けるもので、僕みたいな低学歴が判読不可能だとするならば、今回のスピーチは正に誰にも届く内容だと思う。

高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ。

どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。

引用文全て村上春樹-常に卵の側により。
 完全アウェーで断言できる勇気、というか決意こそがエルサレム賞というか、ノーベル文学賞への布石というか、嫌みじゃなくて心底凄いと思う。もし僕がQuesturaで、滞在許可証が出るか出ないかという瀬戸際で、その決意を見せろと言われたら、間違いなく壁に寄り添う。目的は他にあるから、と自分を言い聞かせる。卵の側に立つには、僕にはまだ覚悟が足りないのだ。
 物書きのランニングコストで言及したけれども、物書きのプロ、表現のプロというのは、やはり圧倒的なんだろう。誰よりも書ける(描ける)というのは、質も量も変幻自在という意味で、やはりプロなんだと思う。趣味とプロの違いは、そのコストと生産性と、表現したいことのコントロールなんだとしみじみ思った次第である。森博嗣の言葉を思い出した。

素人は10,000円のギャラだろうが、1,000円のギャラだろうが、自分の書きたいものを書く。
プロは1,000円であれば1,000円の作品を、10,000円であれば10,000円のものを書く。
自分の作品の値段を知っているのがプロである。

 そんな言葉だったと思う。
 ちなみにタイトルは風の歌を聴けだけが、村上春樹作品で唯一しっくりきた文章だった、というだけのこと。