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最近は写真日記。

考えろ、生きたいと願うなら:亡念のザムド

 先週末、夜更かししてやっと全話鑑賞。

ザムドとは
ヒルコに寄生された人間が変身した姿。アキユキや雷魚が変身するザムド以外にも複数の個体の存在が確認されている。ヒルコを上手く扱えば変身後も自我を保ったまま行動することが出来るが、「考えること」をやめると体が紫水晶のような鉱物に覆われ、最後には全身が石化してしまう。

Wikiより。
忘念のザムド公式サイト
 エウレカセブンのリベンジと言われている作品。エウレカもモーニング・グローリーで終わっていれば、それはそれで良かった気がする(下手に解説した結果があれか)。
以下、ネタバレ全開
 世界観はエウレカ、だが基本ナウシカ的。ナキアミに至っては虫愛でる姫君。ナウシカをもじってナキアミにしたに違いない。ザンバニ号設定はラピュタ。船長が女とか、メカニックがじーさんとか、お節介焼きでお調子者とか。親子が入っていたのはエウレカ的要因。
 見終わってわかったか、と言われると、わからなかったと答えられる作品である。最後の3話位で一気に全体のネタバラシが始まる。詰め込んだ感が否めないが、実際のところ「何が言いたいのか」前面に出てこない作品ではあった。共生なのか、人の繋がりなのか、生きるとは考えること、なのか。そもそも北と南って何で戦ってるの?民族的なもの?領域的なもの?それとも石柱石が欲しいだけ?で、皇帝って何か意味あったのか?そこら辺が腑に落ちなかったので、実際の物語の目的が不明だった。一応ながら主人公視点でアキユキを追っているから、アキユキだけの物語はそれなりにわかる。
 とすれば、意図的な部分で、大きな物語と小さな物語の断絶を敢えて描いているのだろうか。残念ながら憶測でしかなく、またエヴァの時ほど作品に対しての熱意はまるでないので色々な情報を求める気にはならないのだけれど、作品全体を通すと人の繋がりに重点を置いた作品作りになっていた思える。その繋がりは大きな物語に対する自分の繋がり方を示すものではなく、友人関係、恋愛関係、親子関係、夫婦関係、職場関係という個の繋がりに始終していた。大きな物語に繋がろうとしていたのはナキアミと伊舟と雷魚である。垣巣中佐は何がしたいのかわからない。
 三角関係は上手く表現していたし、夫婦関係も絶妙だった。ハルとアキ、フルイチのフルは民俗学的には冬に繋がるから、夏が抜けている。ナキアミかミドリちゃんか。どちらかと言うとミドリちゃんが夏を表現していて、ハルをアキとフルイチに繋げる役目を担っていた。フルイチの気持ち悪さと、最後の終わり方は印象に残っている。リュウゾウとフサの掛け合いは完璧だった。多分監督だか誰だかが日々言われていることを脚本に反映させて、それでもフサが「好いていてくれる」という「希望」を表現している様に見えた。多分現実的にそこまで耐える女性はいないと思うが。雷魚は格好良い。とにかく格好良い。写真に対する思いとか、器の大きさとか。強くて器の大きい男は、リュウゾウ共々格好良い。それに比べて中佐は、という感じである。
 9年経ってアキユキは人間に戻るわけだが、その9年間の思考の旅路が見えん。あくまで「石のまま」か「人間に戻った」かも、という曖昧さを出したいのだろうけれども、あそこまで描いたからには最後のカタルシスが欲しかった。結局ナキアミとアキユキの最後の別れはいつだったか印象に薄い。ユンボは面白い存在だった。ナキアミが伊舟の位置、つまりは親の立場になって始めてわかる部分をしっかりと引き出す存在になっていた。レイゲンドウの存在がわからんが。
 エウレカ同様、言いたいイメージはわかる。生きるとはどういうことかを示したいのもわかる。でも、何でもかんでもつめこみ過ぎだと思う。そこら辺はハルヒを見習うべきだろう。徹底的に消費される作品作りがメインであるために、メッセージ性が単純化されている。
 考えろ、という言葉は視聴者に向けたものでもある、ということがわかるが、考えるべき内容がそこにあったのかは、本当にわからないのである。思考停止がイコール石化することで、人間としての、有機物としての死を表現しようとしているのであれば、ナキアミが何を考えているのか、それをもう少し見せるだけでとらえ方がかなり違ったんではなろうか。相変わらず惜しい作品作りである。大人になったのかもしれない。作品はやはり、終わりよければ全て良し、何だと思った。