apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

3回目の結婚記念日

 3回目だから3人目である。「多分私は3人目だと思うから」ではない。子供の話しである。予定は6月末なのである。というわけで、結婚生活4年目がスタートする。その前におめでとうid:KEN_NAITO。31才である。相変わらずどんどん前に進みやがるので、「僕の周囲にノーベル賞を取る可能性がある人間が1人います」と会社の朝礼で発信しておいた。いっちょまえに有名人である。やるな、けんけん。
 まぁ何て言うかいつも「予定通り」と言うと、「はいはい」と流される傾向にあるのだけれど、まぁ要するにこの幸せは「予定通り」という意味くらいのものである。アカデミアに戻るのは奥さんの方が早いっていうか、以前も書いたのだけれど、奥さんの方が先に進みそうなのである(研究という意味ではないが)。素晴らしいな、と。多分「学生ってどんなもんよ」という意味合いもあるのだろう。大丈夫だと思っている。
 というわけで結婚4年目、31才にして3児のパパが決定しそうである(まだ生まれてないので)。少子化の世の中で、子宝に恵まれて何よりである。子育ては相対的な自由は制約されることは間違いないけれども、絶対的な自由は確約されます。人間を育てるという自由はそれ以外に得られません。
 奥さんは奥さんなのだけれども、ママだったり、おかあしゃんだったりしますが、僕にとってはやっぱり彼女なのです。もちろん子供を失うことは怖いですが、それ以上に今の僕は奥さんを失うことを恐怖と感じています。「奥さんが怖い」という意味ではないよ。そういう意味では人を失う怖さを教えてくれた人なのです。繰り返しになるのだけれども、相変わらず自分の親やその家族を失うことに何の抵抗もない。次に会うのは葬式か、と考えている位で、「親はそんなんじゃない。親は唯一の家族だから」なんて家族ゲームはどうでも良いです。
 30才になったときに表明をしたけれども、ルサンチマン的モチベーションからの解放は長かったなと。

30年生きてみた。ケンケンの指摘した通り、30年も良く生きたものだと思う。これからの倍の年齢を生きるのかと思うと眩暈がしそうだが、それを共にする良き伴侶に恵まれたことの意味は大きい。而立の年であり、今までの結果の今である。不惑の年まで10年。とりあえずは10年、生きてみようと思う。コンプレックスとルサンチマンに囚われた20代から、解放の30代へ。

 解放は相対的自由から絶対的自由に代替され、まぁそんなルサンチマンをあからさまに解体するとすれば、「あんなにも憎んでいた家族的繋がりを、今自分が構築している」という「結果」に結びつくわけですが、そのモチベーションの源泉は全然別の所にあったりして、何だかある意味やっと「普通の人」のフィールドに並べたんでは、という気さえします。

研究は、人生狂おうが何しようが、おもしければやる、でいいんじゃいか?苦行に感じたらやめる。

俺はまだおもしろい。

 サルトル。嘘、id:laquilaの言葉である。モチベーションはそんなものでしかない。遊びの時間は終わらないのである。
 人を愛すること。人を育てること(対象にとって必要な存在であること)。でも育てる、とは自立させるということであり、自分を必要としなくなるという覚悟を持つこと。面白いと思うことをすること。単純明快なセカイである。一番重要なことは、それらを継続できる様にすること、だと思える様になりました。
 夫して、パパとして、僕は不慣れだろう。彼氏としてはもっと不慣れだと思う。それでも側にいてくれる奥さんに感謝します。

追記
30代を発狂せずに愉しむための2つの心がけより。

「継続は力なんていうけれど、たぶん惰性は継続ではない」
「何も愉しいことをやめる必要はない。ペースを変えればいいだけの話である」]