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apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

次の扉と古い荷物

雑記

 義姉(といっても年下なのだが)が世界一周旅行から帰ってきた。オーストラリアから南米に渡り、北米からヨーロッパ、最後はモロッコから帰国した。半年ぶりにあった彼女は髪が伸び、しっかりと日焼けしていたが、しかし彼女という人間にさほど変化はない様子だった。詳しい話しは聞いていない。何処が良かった?という質問に「マチュピチュとモロッコ」と答えていた。奥さんは写真を見せてもらっていて、「とにかく子供の手が離れたら、色々な所、行きたいね」と興奮していた。
 いつの間にか、旅というか、「ここじゃない、どこかへ」という思いは消えていた。もしくは「何かを求める旅」という行為に魅力を感じなくなっていた。目的なくただ延々と、という旅行は以前から好きである。が、時として焦燥に駆られ、自分の身を苦境に置くための旅に出たくなる時があった。その思いがいつの間にか消えていた。
 おそらく、というか確定的に、僕が家族や家庭というものを手に入れた瞬間に、トレードオフしたものがその焦燥心なのだろう。僕の中での旅は、オーストラリア、インド、タイ、そして日本国内での鈍行旅行。インド、タイに関しては他人の面倒を見ながら、という状況ではあったが旅行計画から手配まで、基本的に全て僕が行っていた。
 年齢で言えば10代後半から20代前半。置かれている日常には疑問しかなかった。こんなはずじゃない、という感情しかなかったのだ。それは自分自身に対しても、そして自己を反映する目の前の世界に対しても。イタリアで生活をしている中で次第にその感覚は薄れていった。なぜなら思い描いた未来に自分が立っていたからだ。肩書きは違っていても、「イタリアで考古学」というフィールドに立ってはいた。「自分の」望んだ場所にはいたわけである。違うとすれば他人の評価、客観的な業績、ユニークたり得ない自分、である。
 欠けているものが最初はわからなかった。欠けているとさえ思わなかった。自分が未熟なだけだと、不勉強なだけだと、勤勉であれと戒めた。今思い返してみれば、10代後半からイタリアにかけての旅は身体的であった。身体的疲労、もしくは心的外傷を望んだものだった。イタリアでの数年は内側の旅だった。身体は望んだ場所にいても、中身が追いついていない、そのディレンマに対する焦燥感だった。
 「ここじゃない、どこか」が、「ここなのに、自分じゃない」に置換された瞬間でもある。学問的知識はそれこそどうにかなる。イタリア人学生に対してハンデがあるとすれば、ネイティブかどうか位で、知識レベルでは問題ない。講義は癖があるが難しいわけではない。ある種満ち足りてはいるが、決定的に欠如している部分があった。
 当時、それを求めて旅に出ることはなかった。イタリアにはないものだ、という直感と、かといって日本に帰ればどうにかなるという希望さえ見えなかった。過ぎていくのは時間だけで、年齢だけが積み重なっていった。
 「決断、悩んだでしょう?」と今でも言われる結婚は、実の所、まるで悩まなかった。「計画性が嫌いな癖に、あの時は計画的だった」という奥さんは、やはり正しいのだろう。開いた扉は1人でいる頃に比べると広大で、それでもしっかりと帰れるホームがあった。僕が感じていた不足感は、人間個人としての不自由性なんだと思い至った。あまりにも偏り過ぎていた僕は、その周辺でしか自由を見いだせない様になっていのだ。
 平衡状態と呼べばイメージが安易だろうか。それはつまり僕の偏りを平衡する程、奥さんもまた偏り過ぎている、という現れでもある。結婚が素晴らしいわけでも、子供が凄いわけでもない。ただ単に、結果的に、トレードオフしたものがそれらだった、というだけの話しでもある。
 1人旅ではなく、家族旅行には良く出かける。目的なくただ延々と、という旅行である。「ここじゃない、どこかへ」とも感じないし、「ここなのに、自分じゃない」と焦ることもない。ただ単に旅行を楽しんでいる。一緒に歩き、同じものを見ることを楽しむ旅行である。
 次の扉を開くべきだとすれば、職である。古い荷物は今のスキル。もう一つ専門性を上げなければ話しにならない。大企業的なジョブローテーションではキラースキルに限界がある。かといってスペシャリストになれば偏りが生じる。ゼネラリストとしてのスキルと、スペシャリストのスキル、そのバランスを見極めなければならない。そういう意味では平衡状態にない。以前の欠如に比べれば大きな意味での欠如ではない。ごく短期的な課題、本来的な目標と言えばしっくり来るのだろう。