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apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

フィルタリングとレトリック

雑記 ビジネス

 結論から言えばフィルタリングの深度が上がれば、不自由性が増し、レトリックの必要度は下がる。要するに修辞学に付随する文学的テクニックの必要性は失われる(腐敗する、という言葉が表現的には妥当だが、淘汰されると考えれば、言語進化として認識しなければいけないのだろう)。
 グローバル化が進めば進むほど、フィルタリング技術の精度を求められる。ネット上のクローズドコミュニティが最たる例だが、グローバル技術をインフラにしながら、上部構造は隔絶社会である。ポストモダンと言えばそれまでだが、どうやらその表現方法は2種類に分かれる様で(といっても、種類は1つ)、レトリックを使うソサエティか、レトリックの必要性のないコミュニティか、である。
 SNSとは元来ソーシャルなものである。が、mixiに代表されるクローズドコミュニティは、ソーシャルネットワークをフィルタリングし、コミュニティにまで落とし込むことができる。レトリックとは公共の場での弁論術として発展した。要するに直接民主制において、聴衆を惹きつけるための話法である。公共の場で直接話す、という「直接話法」においてシステム的なフィルタリングは作用せず、話法に力を入れる必要性があったのである(〜が言った、という話法の話しではない)。現代ではネットワークという間接的な公共の場において、フィルタリングが整備されており発信者側が半ば自由に聴衆を選出することが可能である。結果、コミュニケーション可能なコミュニティのみが残され、コミュニケーション不可能なその他は断絶した世界となる。要するにレトリックの必要性のない、「直接的」話法が主流となる。
 修辞技法アイロニーは大多数を対象に話しながら、理解できる人にしか理解できないものになっている。逆にフィルタリングされたコミュニティにおいてはアイロニーを用いなくても直接的に理解できる様になっている。
 強引にポストモダンに倒置してみれば、レトリック使用のソサエティマルチチュード効果を持ち、レトリック不使用のコミュニティは個人化もしくは動物化効果がある、ということになるだろう。言及する必要性はないだろうが、念のためにどちらが上位か下位かという話しではなく、レイヤーの違いである(はてなmixi、もしくはtwitterを使い分ける人がいる様に)。
 特にスキル、という視点から見ればあからさまに重点が違う。レトリック使用は社会性のスキルであり、レトリック不使用はフィルタリングというシステム上のスキルに依るものだからだ。大別すればどちらも生きるためのスキルではあるが、オフラインにあってはフィルタリングは万全ではない(ゲーテッドコミュニティが実践されれば別だが)が、それでも「直接的」話法が重宝され出すと、冒頭の一文に辿り着くことになる。
 要するに後者のスキルが重視された結果、社会性としてのスキルの必要度が下がり、レトリック元来の意義がなくなる。「言いたいことが言える」世の中になった時、コミュニケーション不可能な、コミュニティ外のその他の人間は、あくまでもその他の人間なのである。公共の場で話しをするということは、偏向した言い方をすれば、その他の人間に向かって話す、ということでもある。その他の人間にどうコミュニケイトするのか、それが社会性としてのスキルであり、レトリックという技法が生まれた理由なのではないだろうか。「言いたいことが言える」世の中ではあるが、伝わらない人には全く伝わらない世の中と、「言いたいことが言える」世の中ではあるが、話法一つで世界を広げられる世の中ではどちらに本来の自由があるのだろうか。

例にならない例
・地元の内輪では大ウケの話しが、会社とか公共の場で発言したりすると全くウケない人とか
・地元の内輪ではスゲースキルを持っているんだけれど、実際社会に出てみると代替の効くありきたりなスキルで、生き残れない人とか
・それでも「おれ、地元に戻ると幸せ」とか
・会社とか公共の場では凄い信頼度があるけれど、家族では全くの邪魔者扱いの人とか
・他人批判の比較対象のリアルサンプルが少ない、もしくは偶像的であるとか
・好き嫌いでしか生きられないとか
・直球勝負しか挑めず三振を取れないとか
・PKまっすぐしか蹴らないとか
・まっすぐしか蹴らないから、キーパーが邪魔とか言い出す人とか
・公には言いたいことが言えず、手紙回すとか
・ブログに不自由性を感じるとか
・でもネットでは発信したい人とか

 そんな、レトリックと直接的なお話し。

追記
こちらもまたレイヤー違いのフィルタリングの話し
個人の狂気を見い出すフィルタリングシステム
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