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最近は写真日記。

死んだ猫でも高いところから落とせば、地面に当たって飛び跳ねる

 相場格言なのだそうだ。急落しても、必ず反発する、ということらしい。が、反発しても、猫は死んでいるので、立ち上がりはしないのである。
 増田で、仕事ができる人の周りには、自然と仕事ができる人が集まってくる、という話しがあった。嘘だろうと思う。実体験からではない。簡単なことである。選択可能か選択不可能か、の違いである。だから起業した経営者側からすれば、それは当てはまるが、選択される側の被雇用者にはあまりあてはまらない。
 いつかも書いたが、「類は友を呼ぶ」は半分当たっているが、半分は嘘である。半分の嘘は、自己選択不可能性の部分である。どれだけ優秀な大学に入ってもできない人間はいるものである。要するに優秀な大学内でも格差がある。会社も同様である。では、その学校や会社を選ぶ段階で「わかれよ」というのも、また決定的ではない。敢えて言えば大きな会社ほど、できない人間の割合は増えるし、優秀な大学ほど、その能力を純粋学問に注入する人間の比率は低くなるかもしれないのである。
 義務教育過程に至っては悲劇的である。半強制的にその場が用意されるのだ。その場の中で、「できる限り」友を呼ぶのである。それを全て「類友の法則」で片付けるのは強引ではないだろうか。
 何が言いたいのか。一番わかり易いのが海外生活の場である。それぞれに極端な人間が多い。超が付く程のエリート。日本では何もできなかった人間。自分の力だけでどこでも生きていける人。様々である。そういう場にあって初めて、自分の鏡を見つめることができる。要するに社会的(コミュニケーション可能な場)な場ではなく、世界的(コミュニケーション不可能な場)な場の方が、本来的に「類は友を呼ぶ」のではないだろうか。
 要するに「類友の法則」なんてものは、半分がバイアスで、半分が思いこみなんではないだろうか。だから仕事ができる人の周りには、ちゃんとできる人が集まってくる、という論理は、あるレイヤー以上のお話しでしかないのである。そのレイヤー以上でなければ「仕事ができる人じゃない」というのであれば、至極その通りなのではあるが。ただできる人間ばかりを集めても、渉外先はできない人間がいるのである。その部分をくみ取れるか否かは不明である。
 できない人間でも、類友でも、地面に当たって少なからず飛び跳ねるのである。それは一つの作用として。

Dead cat bounce.