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最近は写真日記。

子どもの手当

 民主のマニフェストにある子ども手当。犠牲になるのは配偶者控除と扶養控除。子育て世帯からすれば嬉しいが、子どものいない世帯からすると負担増になる。色々と賛否両論だが、簡単にまとめると3つ。

1.子育てはお金がかかるので賛成
2.子どもがいない世帯では負担増+子どもを作らないといけない、という強迫観念
3.子ども手当は本来的な少子化対策になるかは疑問

 1はそのままである。2に関しても、「作らないといけないのか」という声は消されている。が、先日の大和総研のコラムに最もらしい反論が書いてあった。

子ども手当には、子育て支援ではなく、一種の社会貢献活動としての意味があるのだ。
そもそも論として、子どもがいないと将来の社会が成り立たないのは自明のことである。

実際には一部の人が代表して出産・育児を行っている。その意味で現代の出産・育児は、警察や消防などの公務と同等の活動である、といってもよいだろう。

結局のところ、出産・育児が社会活動の一環であるという考えが出てこないのは、その影響が明らかになるのが数十年後であるため、損失が過小評価されてしまうからだろう。子ども手当が国民の納得を得られるかどうかは、将来についての想像力と将来世代に対する責任感を現在の日本人がどれだけ持っているか、にかかっていると言えよう。

齋藤哲史『「子ども手当」の意義とは』 公共政策研究所

 何というか、「子どもがいないと不公平だ!」「何で子ども産んでないとお金もらえないの?」とヒステリックになる方々には丁度良い反論である。グーの音も出ないであろう。だって彼らでさえ1人で生きていくわけではないのだから。
 但し上記分に、僕個人としては納得できない部分が2つある。

1.子どもがいる世帯・子どもがいない世帯の二者択一で話しが進んでいること
2.日本の為に子どもを産んでいるわけではないということ

 まずは1の部分である。子どもがいる世帯 - 子どもがいない世帯の2分立ではなく、その間に、子どもが欲しい世帯があって、その世帯は二つに分かれる。経済的に持てない世帯と身体的理由から持てない世帯である。前者は説明の必要がない。後者は例えば不妊治療中である場合。子どもを望んでいるのに持てない場合、子ども手当はどう響くのだろうか。
 まとめると、

子どもがいる世帯 - 子どもが欲しいけれど経済的余裕がない - 子どもが欲しいけれど妊娠できない - 子どもが欲しくなくて作らない

 となる。要するに最初から子どもが欲しくない世帯からすると、国家的に出産・育児を推奨し現金を支給することに対しては納得が難しいだろう。「子どもを産んだのは勝手。自己責任」と結びたがる傾向にある(推奨する人ももちろんいるが)。その反論に対しては上記の引用が有用である。社会持続コストとしての対価と考えればフリーライダー論にもひっかかる。
 そして2つ目。これは1つ目の反論部分に矛盾する。「国家・社会的持続の為に子どもを産んでいるのだから」は、強制的であってはならない。少なくとも僕は海外に移住しても何ら問題はないし、30年中5年間は海外にいたので、今後もどうなるかは不明である。言うなれば社会的持続性の為ではなく、人類持続性が正しい。生物としての本来的な活動、本能的活動という意味で、子孫繁栄は肯定はされても否定はされない生理現象であると思っている(クローン技術と遺伝子保存技術が進歩し、純粋多様性が否定されなければ、の話しではある)。
 そして何より、子ども手当って、子どものための手当である。大人の議論になっていて、それこそ定額給付金の18才以下の対応と同じである。権利があるのは子どもで、受け取る大人は代理である。中学生以下の子ども手当支給該当世代の声をもっと反映させるべきである。
 マニフェストを忠実に実現できるとは思ってはいないけれど、そういった問題を提起しただけでも、自民とは違う、という意味で評価しようと思う。