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最近は写真日記。

語り得ないもの - tune the rainbow

 先日NHKでアニソン特集を放送していたのだけれど、坂本真綾は見かけなかった。その後思い出したようにプレイリストに坂本真綾を追加したのだが、今朝出勤中にtune the rainbowが再生された。
 字面だけ見れば青臭い歌である。元々が純愛アニメ用の歌だからしょうがないのだが、ストレートな歌であり、また坂本真綾の声と、菅野よう子のメロディが相変わらず絶妙ではある。
 一つ飛躍してみる。

配偶者の「才能」「美貌」「情愛」などについて世間に知られることが少なければ少ないほど、「この人のほんとうの人間的価値を知っているのはこの世で私ひとりだ」という確信は深まる。
私が「この人の人間的価値」の唯一の証人なのである。
私がいなくなったら、この人はそのすばらしい人間的資質を誰にも認められぬままに終わる可能性がある。
そして、この確信から導かれる遂行的結論は「だから、私は生きねばならない」である。

「適切な配偶者についての一般的基準」というものがあるということは、この基準に照らしてランキングが高い異性は、すでにその条件によって、「あなたがその人の配偶者である必然性はない」ということになるからである。
多くの人の羨望の対象であるということは、あなたの「替え」はいくらでもいる、ということである。
誰でも自分と「代替可能」であるという自己認識がひとを幸福にすることはありえない。
しかし、私たちの社会は挙げてこの「人間的価値の数値的・外形的表示」に狂乱している。
それがどれほど致命的に私たちの自尊感情と自己愛を損なっているか、それについて私たちはもう少し真剣に考慮した方がよい。

配偶者の条件 内田樹の研究室より。
 あくまでも、

私たちの社会は挙げてこの「人間的価値の数値的・外形的表示」に狂乱している。
それがどれほど致命的に私たちの自尊感情と自己愛を損なっているか、それについて私たちはもう少し真剣に考慮した方がよい。

 これを言いたいが為に若干遠回りなことをしている。近代とは数値化(統計)の時代でもある。グローバル化とは近代の全体平均化とも捉えられるが、恋愛もまた「婚活」というマーケティングに乗せられ数値化されているのである。生涯年収とか結婚適齢期、貧困の文化遺伝とか、本質的な幸福に影響はすれど、そこに本質的な幸福はあるのだろうか。そういう事を言いたいのだろう。というより、ポジション的にもそういったことに視点をシフトさせることが仕事でもあるのだろう。
 他人の恋愛ドラマは所詮「ドラマ」でしかない。だからこそ冒頭の歌詞をストレートに読むと恥ずかしくもあり、気持ち悪くもなる。しかし恋愛とはそういうものである。感情に響くものである。何より人間としての存在に訴えかけるものでもある。達観し、近代の価値観でそれを語れば、メリットとデメリットでしか表現できないかもしれない。が、少なからず人はその情緒を伴って、今の繁栄に至っている。子孫を残す行為自体は生物の本能的なものであり恋愛感情は優先しない、という意見もあるが、恋愛感情もまた本能的であり、本能を数値で共有できない様にその恋愛感情を否定はできない、と言えるだろう。だからこそ他人の恋愛ドラマを恥ずかしくも、気持ち悪くも感じるのである。同様に共感という現象も起こるのである。
 tune the rainbowの後に流れたのは或る街の群青。アニソンである。そう言えばアニソンが元で売れたアーティストは多いなと思う。
 今さらながらに愛を語るには、恥じらいが丁度良いことを知る。愛とは恥ずかしいものである、そんな言葉があったかと思う。愛を言葉にすると恥ずかしいのは、結局言葉で語り得ないことを悟っているからだろう。それは虹をかける様なものなのだ。自分と愛する人の間に。そして虹は光の分解である。いつも目に入ってはいるが見えないものが、屈折し可視化されているだけに過ぎない。

つかのまの虹…
きっと君への架け橋になるだろう