apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

友達だから(笑)

 (笑)はスイーツ(笑)と同じ仕様である。僕の中では遙か昔に決着の着いている内容であるが、最近その手の話しをする機会が増えたので、整理しようと思う。

1.強制的に適用される「場」での出会いは運命ではない

 運命扱いにしても良いのだけれど、学校の「クラス」など、自分で選んで参加していない場所だけでの出会いは不可抗力。

2.選択した「場」でも、出会える確立は低い

 1で挙げた「クラス」編成は強制的でも、高校以上の学校という「場」は自己選択が可能である。なので、「学校」という「場」を選択したのは自分であって、その選択に全てがかかっている。福袋みたいなもので、「自分に合った」福袋を選択できれば、良い出会いが多いが、「自分に合わない」福袋だと、全てががらくたとなる可能性がある。見極めが大切である。

3.友達というカテゴリーはあってもなくても同じ

 1と2を根底から覆すが、上記の2つは「出会い」について整理しているのであって「友達」については言及していない。「友達は財産」と財産程度に置き換えられるもので、あれば困らないがなくても困らない程度の繋がりである。
 「仲間」という言葉も、僕にとってはほぼ同義である。ドラクエの仲間(パーティ)みたいなもので、勇者以外(勇者という職業が最近では希薄だが)は並列である。
 同志、という言葉が適当である。同じ志を持っていること。その際に、方法は同じでなくても構わない。時には自分を遮ることがあるかもしれない。でも同じ志である以上、またどこかで同じ方向を見られる。どんな状況であっても、相手の結果を尊敬できる、という繋がりが全てだと思う。そういう人間にはそう出会えない。僕の場合、イタリアの4年間で、数えられる程出会えた。奇跡だと思う。残念ながら今の職場では、4年目になるが1人も出会えていない。当たり前である。そういう「場」ではないのである。
 やりたいことが明確になれば、案外と出会えるものである。出会えなくても自分のやる事をやっていれば、そのステージで出会えるだろう。ステージが進めば進むほど純化していくものである。
 人は出会うものであって、探すものではない。おまけにカテゴライズされる程、他人もお人好しではないのである。P2Pという現象はその最たる例だろう。回線スピード、回線安定度、共有ファイル数、コンテンツの信頼性、コンテンツ更新のスピード、ノードの価値はそれだけで決定できる。そしてリンク可能なノードは、同様に己の条件を反映するのである。何よりリンク先にカテゴリーなど存在しないのである。
 自分にとって本当に必要な人間は、その人間もまた自分のことを必要としてくれていることが多々ある。それは需要と供給という、与える→受ける、というシングルタスクではなく、共時的にどちらにも影響を及ぼす関係である。つまりは話しながらひらめいていく様な、その相手でないとそのひらめきがない様な、そういう関係である。
 学生であっても、社会人であっても条件は同じである。「その人」に出会うことは、一見して困難かもしれない。ただいつでも「その人」に出会う機会は用意されている。必要なのは、出会える用に「準備」すること。自分がその人にとって、出会う価値のある人であること。否、出会った際に「出会えた」と思われる人に成っていること。そして無理矢理「出会い」を求めないこと。友達なんてできなくて良い。友達の数が多いことが、その人間の価値にはならないから。その人間の価値は、その人間が決める。たったそれだけの事だ。価値ある「出会い」は、一期一会の連続でしかないのである。次、同じ人間に出会った時、自分がその出会いに値する人間かどうか、それを判断基準とするのが良いだろう。