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apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

倫理学と実践

 石井敏夫先生が2005年に心不全で亡くなっていた。学部時代に学んだ教養科目で群を抜いて面白かった講義だった。倫理学とは何か。テキスト読解とは何か。そういったことをみっちりと教わった1年間だった。テキストは、ポール・リクールの「意志的なものと非意志的なもの?」、そしてカール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」だった。
 前期は徹底的に、「倫理学と実践が循環しなければ、倫理学は腐敗してしまう」という前提を学んだ。後期ではその前提を踏まえた上で、カール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」の序章を1行1行精読。
 あの講義を通して、アカデミアとは何かを知った。科学とは何か、ということを学んだ(たたき込まれたのは、考古学を通してだったが)。未だに大学の講義で残っているのは、石井先生の授業と考古学(専門課程)なのである。 大学時代、無欠席の授業はバスケと石井先生の授業と考古学だけである。ちなみに遅刻を含めると石井先生の授業のみ無遅刻だった。それほど面白かった。専門課程は面白くて当たり前なのだが、社会科学の面白さを教えてくれた講義なのだった。
 僕は考古学専攻だったので、哲学・倫理学課の授業は履修できない。特に専門課程の授業はまたげないのだが、石井先生の授業は学部内単位交換が認められていた。残念ながら学科をまたいで履修しているのは僕だけで、講義を受けている学生は皆顔見知りの様だった。
 講義は大変に難しかった。が、わかるまでしっかりと導いてくれた。毎回課題があり、毎回発表をさせられた。意志、本能、自由、それぞれの言葉を「調べる」という簡単そうに思える課題は、本当に厄介であった。
 戦後すぐにヤスパースが大学で行った講義の内容が「戦争の罪を問う」である。石井先生が示したのは、「ナチスを生んだのは誰か?」という問いと、「ドイツ的とは何か」という問いだった。そして「オウム信者は如何に社会復帰が可能か」という時事ネタを盛り込み、前期の前提である、倫理学と実践に立ち返るのである。
 石井先生は何故後期にヤスパースを選んだのか。恐らくは、当事者意識を持たせたかったのではないだろうか。僕が授業を受けてから既に10年以上も経過してしまっているので、当時の雰囲気や臭い、感覚は遠のいてしまっていて共時性は全くないのだけれど、今となって思い返してみれば、社会に対する当事者意識、責任の所在地を求める講義だったのでは、と安直に思ってしまうのだ。
 もちろん倫理学の方法論の徹底が根底にあったのは確かである。その意志は本当に自分でコントロールしているものなのか?その決定、決意、動機は、限界状況が訪れたとき、どう変化するのか。どう循環させるのか。未だに思考をする際、石井先生の板書の文字を思い出すのである。
 その後助教授になり、キャリア一直線だと思っていた。ベルクソン研究の第一人者というのは後ほど知ったのだが、まさか亡くなられているは思わなかった。しかも2005年だから、僕がイタリアに行っている時である。地中海を挟んだ、ニースに留学していたなんて知らなかった。
 ある時「子供が生まれました」そう嬉しそうに、報告してくれたことを思い出す。仕事中、色々と考えていたら本当に落ち込んでしまって、あの時必死で取ったノートを読み返したくなった。ただ「倫理学と実践が循環しなければ、倫理学は腐敗してしまう」その言葉だけは、ノートを読み返さずとも僕の中に根付いている命題である。