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apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

スキルとは何か?否、社会人とは何か?

 前提として僕は社会人という存在を懐疑的に見ている。学生と社会人を分けるものが通過儀礼的なものであり、絶対性のない価値観である、ということは明確ではあるが。
 さてid:KEN_NAITOからコメントで質問を頂いた、「社会人スキルとは何か?」という問いに対する応答である。質問を精査すると以下の通り。

問い「有意味なものとして語られるってことはつまりどーゆーこと?」
1.社会人として存在している人間には「社会常識」が備わっているはずであり、同様に「社会人スキル」もその範疇に含まれて良いのでは?
2.1が認められない理由として、「社会人スキル」は「社会常識」の上位にあり、特別視されているからか?
3.1が認められない理由として、「社会常識」が失われた結果新たに「社会人スキル」が必要になったのか?
4.大きな物語の影響力が低減した結果、小さな物語、もしくは島宇宙的、各コミュニティ同士がコミュニケーションを行う上でのコードとして「社会人スキル」が用いられてるのか?

 という4つの質問に分けられる。
 問いに応答すると、「社会人スキル」が本質的に「有意味なものとして語られる」タイミングは就職・転職の時だけである。次。2と3は表裏一体なので、並列に。人事採用時において、キャリアとは2種類のスキルに分けられる。専門的か普遍的横断的か。要するにスペシャリストかゼネラリストか、である。同様に社内スペシャリストか社内ゼネラリストかにも分類される。ある社内において、社内システムのスペシャリストでもあり、社内レベル的にはOfficeソフトが上級レベルである、と人事評価されていても他社に行った際の評価点は、それぞれのスキルが転化できるか否かでしかない。
 ドラクエに例える。魔法使いで育てる。メラゾーマを覚える。ルカナンも覚える。前者は専門的だが後者は賢者も覚える。メラゾーマは魔法使いしか使えないので、メラゾーマが有効な的には唯一無二のスキルとなる。後者は賢者の方がMP高い為、補助魔法要因としては賢者が勝る。さて魔法使いが転職をしてみる。賢者も転職をしてみる。それぞれ全ての魔法は残らない。残るのは基礎体力であり、得意魔法だけである。もしくはHPやMPである。極論だが最近の転職市場にあっては、そういった物が「社会人スキル」だと言える。上手い例えに成らなかった。ドラクエ9は転職すると魔法は一切残らなかった…。そういう意味ではFFの方がスキルとアビリティで捉えていてわかりやすい。
 で、2と3への応答である。大学時に新卒採用が始まるのは大学3年である。同様に一般的にはゼミ形式の授業が始まるのも大学3年である(ちなみに僕の大学は1年目から研究室入りだった)。最近の傾向として、ゼミの評価点は「どれだけ就職させたか」で捉えられる傾向にある。もちろん数%の人間を大学院に進学させれば大学の利益が上がるが、それ以上に対外的に「この大学に入るとこんな大手に就職できます」と歌った方が不景気時には効率良く利益が上げられる、と考えている様だ(直アンケート結果)。この構造は既に高校から始まっていて、「大学受験勉強」と「高校の勉強」、高校2年からスタートするのは前者である。
 とすれば、教え込まれる「社会常識」は、「受験勉強」であり「就職活動」である。新卒者、また大学生に先日質問をした。「キャリアとは何だと思いますか?」「何故就職活動をしようと思ったのですか?」と。彼らは答えられなかった。何故、自分たちが就職活動をしているのか、明確な答えを持ち合わせていなかった。まぁ、同席した上司に「何、馬鹿みたいな質問してんだよ」的な注意をされたが。要するにその前提がないのだ。だから「社会人スキル」が必要になるのである。「社会常識」はあるのだ。しかし、あくまでも「ルールに則った社会」の「常識」であり、範囲設定がなされている。いつ大学に入るのか。いつ就職するのか。いつ転職するべきなのか。いつ退職するのか。ライフプランは暗黙の了解とされているのである。それが2と3の応答であり、4への布石でもある。
 人事側も人を見る能力が劣化している。では何を見て彼らは「社会人スキル」と考えているのか。それはリクルートやインテリジェンス、マイナビ、日経、enなどが決めた、「明示化されたスキルシート」を見ている。それはマーケティングされた結果もある。新しい市場・分野が登場した場合、平均化する為にライセンスなり試験なりが設定される。その市場・分野はある程度マーケットを持っていなければ、「明示化されたスキルシート」には乗らないのである。例えば僕は求人広告取扱者資格証を持っているが、各社にそんなチェックポイントはないのだ。
 現状の採用活動ルールは、あくまでもゼネラリストを前提としたルールである。専門者にはカテゴリが中途半端なのである。そこで専門者を見極める為に別途試験が用意されており、しっかりとフィルタリングされる様に構築されている。
 つまり応募者が多様化、否、市場が多様化した為に、画一のスキル設定が困難になった。例えば広告制作スキルと言われ、PhotoshopIllustratorが使えます、Quark、InDesignが使えます、と記述されてもその人間のスキルは図れない。ゼロから創作できるのか。部品や素材があって初めて加工ができるのか。創作は上手いが加工作業は粗い、とか。分野が同じでも、明らかにスキルが違う。ましてやWeb広告制作となると、紙媒体と前提がまるっきり変わる。分野毎に「一般化」させる為に、「明示化されたスキルシート」が存在するのである。
 遠回りに遠回りを重ねた。「社会人スキル」を「ヒューマンスキル」と「ビジネススキル」に分けると、アカデミアに徹底的に足りないのは「ヒューマンスキル」である。何故か。「ヒューマンスキル」こそが「社会常識」とされている部分であり、「ビジネスマナー」を基礎とした「社会人的コード」だからである。アカデミアで求められる「ヒューマンスキル」はコミュニケーション能力に代表される「人間力」でもある。だから「社会人的コード」を知る必要性などない。課長の上が部長とか、本部長と部長と副本部長と副部長と誰が一番偉くて、お茶をどう出して、でも顧客の社長と、業者の社長でも扱いが違って、なんて話しは必要ないのだ。
 だからこそ法人化した大学が産業界から求められる内容が曖昧になる。スペシャリストを育成するべきか。ゼネラリストを育成するべきか。もしくは「社会人的コード」を徹底に教授するべきか。現状アカデミアに求められているのは一番最後である。「常識を知らない若者が増えている」という言葉が象徴しているのは、「社会人的コード」を知らない、ということである。しょうがないではないか。それを教授できる人間がいないのだから。という話しでもある。同様に、じゃあ、大学は何の為にあるのか。社会人が結局アカデミアの上位なのか、という問題が提起されるのである。
 僕は一番最初に書いた。社会人という存在を疑っている、と。日本の労働倫理観は既に崩れ始めていることは確かだ。が、同様にアカデミアの存在感も薄れているのではないのか、というのが問題なのである。