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最近は写真日記。

君が人生の時

 僕が人生の時は、さて来るのか、という問題は見過ごそうと思う。いつでも僕が人生の時なのだ。いつだって、僕が人生の時なのだ。「いつか」は来ないし、「その内」なんて暇はない。いつだって「今」が人生の時だ。その人生を選択しているのは、いつだって「自分」だ。選択できる自由があるだけましだ、という話だ。
 “掛け替えのない昨日”は、“投げ出しそうな今日”の連続でもある。好きなことを持続させることは、好きなことをやっている、という現状認識に矛盾する時もある。同様に、好きなことをやっている、という現状認識は、結果的に好きなことをやれなくなる、という矛盾を抱えている。持続性とはそういうものである。やっていることが好きか嫌いかである限り、ついて回る問題でもあるのだ。
 大人になれ、という年賀状を頂いた。相変わらず僕は僕にしからならない、と思っている。子供が皆大人になるわけでも、大人が子供に優れるわけでもない。子供は大人になれるが、大人になった人間は子供にはなれない、という不可逆性を伴う。僕には関係のない話だ。大人だと思う人間だけでやって頂ければ着地できる話だろう。妥協点で着地すれば良い話である。大人らしく。
 目の前に“君が人生の時”を謳歌する人間がいる。半身として相応しいと思っている。でなければ、人生を一緒に歩めない。
 充実はいつなのかわからないが、充実を感じられる程、未だ人生に退屈しちゃいない、ということでもある。ど真ん中にいる、というのは人生も仕事も同調していて、今まで半身だった日常がやっと人生に影響を及ぼしつつある。仕事がやっと仕事らしくなってきた、と言えば簡単だろう。
 企業人の意味がわかってきた。組織人とか中間管理職とか社会人とか。責任転嫁できるだけ、やはり社会人てのは楽だと思う。結局誰かの所為にできる。会社や経営者や環境や社会や。随分と当事者意識に欠けるものである。学生よりも一段と当事者意識にかけるのである。卒業できないのは自分の所為だと納得する癖に、給料が上がらないのは会社の所為にできるのだ。
 勿体なくて抽象の所為になんてできない。これは“僕が人生の時”だ。僕が見ている社会の物語だ。誰かの所為にするなんて、それこそ勿体ない話だ。贅沢に行こうと思う。存分に楽しもうと思う。歩む人生が見えている分、死ぬときに充実を笑える様に。