apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

また一つ年を重ねた

 白々しく年をとっていく。34歳の自分が、実はにわかに信じられない。少し前まで14歳だったのに。気がついたら24歳になっていて、多分次に気がついたら44歳というゾロ目になっているのだろう。「この世の中は基本的に平等ではないですが、案外と平等なものがあります。時間です。」と言っていた人がいたが、嘘だろう、と思う。その時間もまた人が決めたものだ。生物の時間はサイズによって異なる。ゾウとネズミの話なんかしなくたって、時間という近代的な制約に縛られるつもりはない。僕の時間は僕が決める。
 エトルリアの映像をNHKで見た。訪れ、写真に撮り、メモを取った壁画ばかりだった。壁画の変遷に対するコメントも数年前と変わっていなかった。一見すると研究は進んでいない。そんなものだ。誰かが少しずつ積み上げて、誰かがリレーする。気がつけば研究は進んでいる。企業組織に入って、経営戦略とかやってわかったことはそういうことだ。「誰でも引き継げる。誰もが同じ様にできる」そうしないと経営は持続しない。必要なのは「何を」引き継げる様に企画するのか、である。天才が何人も続けば良いが、誰もがそうあるわけではないのだ。アカデミアとビジネス社会と一般社会の差は、アカデミア>>>>>>ビジネス>一般、くらいに遠い気がする。否、本当は並列でもあり同列なのだが、言葉が違い過ぎるのである。言ってみれば、アカデミアは企画し、ビジネス社会は持続させようとする。企画が天才的でも、ビジネス社会はマネタイズできなければ持続不可能になり、一般社会には伝播しない。企画が100年に一度の発明であっても、結局一般社会が追いつくのに100年かかるのである。※強引なモデルではあるが…。
 ここ2年くらいそういうことばかり目の当たりにし、考えている。東日本大震災以降、行政とやりとりしていても様々な齟齬を感じるのだが(今更ではなく、以前からだが)、何故齟齬を感じるのかが具体的になりつつある昨今ではある。要するに「誰に」行うのか。「誰に」研究するのか。「誰に」展開するのか。そういった事が中途半端なんだと。政治や学閥で、ポストが消える様な専門分野って何だろうな、と。ましてや一研究を引き継げない、というのは、それこそ国家的な問題であり属人的この上ないと思うのである。ビジネス社会的視点でみると、それって全く脆弱な組織なんだよ、と。