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apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

個からユニットへ

 新年度早々、ちびジュニア(長女)が熱を出す。小学校への入学は来週に迫り、学童トライアル期間でもある。生憎と奥さんも入社3日目で思いっきり研修中。僕もタスクと打ち合わせを抱え身動きが取れない。結果的にご近所さんが迎えに行ってくれて、ジュニア(長男)と共に帰宅することができた。結果的には夫婦揃って仕事場に拘束となり、子どもの元に駆けつけられない事態である。
久しぶりに同級生と会って言葉に出来ない感情を抱く
 独身と所帯持ち(子有り)の差異は何だろうか。その昔、僕も子どもを持つことによって個人の自由が制限されると勘違いしていた。いや、現実的には個人の時間は制限されることは確かである。
 しかしイタリアで生活する中でその考え方が根本から変わった。僕が学ぼうとしていた社会科学は、人間に関することである。何より歴史は、人が人を生んで紡いだ記憶である。果たして子どもを育てずにその現象を感じることはできるのだろうか、という疑問が端的に浮かんだのである。
 結論から言えば子を持ったのは自分のためでもある。自分の思考を拡張してくれる。何よりイタリアでは個で行動するよりも、ファミリーというユニットで行動する方が物理的な行動範囲を拡げてくれた(大陸の方々は家族、それも大家族で移民するケースが多く見られるけれど、リスクヘッジと個の自由性の担保があるのでは?と深読みしてしまう)。
 『彼女に超進化を強いる社会環境がおぞましいく思える』は逆転している。望んだ結果、環境が変化したのだ。そういったことを事前に想像できたか、想定していたかは別として、少なくともコミュニケーションをせずに子どもは育たないし、旦那さんが自然に食器を洗ってはくれない。それは結婚をしたからでも、子どもができたからでもなく、その前提を双方が認識し、コミュニケーションの結果、家庭に他者を呼んでも運営ができる仕組みを構築した結果である。
 誰もが結婚して子どもを持つとそうなるわけではない、というのが上記の『社会環境』の節の反証となる。
 同期の年下が4月末で退社する。結婚して3年程度経っているが『子どもを持つとやりたいことができない気がする』とこぼした彼に、「子どもがいてもやりたいことができないのは、君がまだその地平に立ててないって事だ」と我が身を振り返る言葉を贈った。何かの所為にしてできていない、という事実と、それでもできている人の差は、何かを成し遂げた後の結果を大きく変えると思っている。