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最近は写真日記。

You are the one. ; Bye bye Eins.

 2015年6月22日、アインが逝きました。2000年2月末に栃木で出会い、15年強。年齢ではもう少しで17歳。3年前に腫瘍が確認されつつも、変わらず元気で居たアイン。22日の明け方、いつもと違う泣き声が聞こえ庭を確認すると、横たわり痙攣しているアインが居ました。家族揃ってアインに近づくと、それでも気丈に立ち上がり僕たちの前を歩いて見せました。その後幾分復調しながらも、家族が出かけた後に静かに息を引き取りました。仕事の昼休みに奥さんが確認のために家に戻ると、庭の真ん中で横たわっていたそうです。


お父さん!?

 別れに直面して思い出すのはやはり出会いの場面です。2000年の2月、僕は考古学実習のため栃木に居ました。その前年の1999年という世紀末は僕にとって最悪な年で、身体はボロボロ(帯状疱疹〜麻疹)、極度の人間不信(人間関係)、そして頼みの綱の学問においては大学を留年と、当時の僕にしてみれば死に至る病の最中だった事は確かです。そして2000年春の考古学実習に向かう直前、2月の初旬からタイ・インドに滞在し、死をリアルに感じガンガーで沐浴し、人生とは何かを問い続ける日々を送りました。そして自己実現欲求意外に答えが見出せない中、僕は考古学実習に参加したのです。
 その時の実習内容は小口積み古墳の解体で、古墳一基の図面に四苦八苦しながらも、積み上げられた石の必然性を考える日々でした。【なぜこの石が必要なのか。】表面的には意味が無さそうなのに、構造上では必然性がある。そんな日々の中、アインに出会いました。僕たちが合宿生活を行う平屋の庭で走り回っていた白い子犬。実習に出かける前の朝食時になると決まって吠え、餌を欲しがる。そうかと思えば通学時間の小学生の後を追い、また小学生に追っかけられてキャンキャン吠えていた白い子犬。それがアインでした。



出会った時の野良犬具合。

人の顔を見るたびに、食べ物をねだっていました。

家に連れて来られた初夜。

 実習終了も間近になり平屋の受け渡しになる頃には、縁の下にアインは住み着き実習中の学生たちに懐いていました。それでも現実問題として、保健所の方々はやってきます。引き取り手が無い場合は、平屋の受け渡しと同時にアインが保健所に引き渡される事になりました。考えに考えた結果、迎えのバスが到着した時に、アインを家に連れて帰る事にしました。ちなみに実家に犬を持って帰る事は伝えず、段ボールにアインを入れて栃木から家路に着きました。
 当初は困惑していた実家の人々も、アインのコミュニケーション力?に負けていつの間にか一緒に生活していました。僕は相変わらず、うだつの上がらない日々を送っていましたが、それでも【毎日、責任を持ってアインの散歩をする】という、日々のタスクができました。どれだけ眠くても、朝になればアインの散歩に付き合わなければなりません。またどれだけ疲れて帰って来ても、1日の締めくくりはアインの散歩になりました。


ホワイトベース型。

拾った当初は片方の目が見えていないと思っていました。

いつも眠そうでした。

 アインの散歩に始まり、アインの散歩に終わる。自分だけのタイムマネジメントで生活をしていた日々と異なり、否応なく他人(他犬?)の人生に巻き込まれる事になったのです。これは自分自身、大きな驚きでした。それまでは自分のペースで好きなときに寝て、好きなときに起きる、という自分優位の生活を送っていたにも関わらず、それこそ無心にアインの散歩に行きました。
 無理矢理に外の世界に連れ出されると、以外にも日常には変化が溢れていました。毎日アインの目線を追うことで、人の目線の高さでは気が付かなったものがたくさんありました。何よりも同じように散歩をする他の飼い主の方や、街中の人とのコミュニケーションが増えました。アインの人懐こさはある意味無敵で、アインが脱走する度に誰かに連れられて我が家に戻って来ました。僕が歩く横にはいつもアインがいたのです。


馬鹿みたいに色々な場所に一緒に行きました。

どこに行っても子どもたちに大人気でした。

 大学卒業後、僕はイタリアに。アインとは長期のお別れとなりました。毎年、一時帰国する際には吠え立てて出迎えてくれました。帰国後は、僕らはマンション暮らしながらも、アインは奥さんの実家に居候させてもらい、夕方、週末は一緒に散歩することが可能になりました。今の家を選ぶ時も、アインの居場所が選定項目となり、いくつかの物件は惜しくも見送ったほどです。
 2012年の夏から、またやっと一緒に生活を送れる様になりました。ちょうどその頃、アインに腫瘍が見つかりましたが、アインもすでに13歳。手術に踏み切るにはリスクがあったため、いくつかの動物病院でオピニオンを聞きましたがそれぞれ診断内容はことなりました。結果、僕たちは手術を見送る事にしました。
 今住んでいる家の周囲は、自然の緑地や緑道が近く、散歩に適した場所です。当然、愛犬家も多くアインが居た庭の前は、他の犬の散歩道になっていて、いろいろな人がアインの名前を覚えてくれました。「僕の家族」とくくった時にも、奥さんや子どもたち、何よりも犬のアインと猫のルイが、やっと一緒に生活を送れた3年間でした。3年間で子どもたちも成長し、アインの散歩への参加の仕方や目的が各自で異なる様になりました。例えば自転車の練習であったり、親の独占であったり、と。週末になれば、家族で揃って散歩をして四季の移ろいを感じながら、僕と奥さんは、子どもたちの成長を改めて確認していました。


散歩の仕方をジュニアに教えるアイン。

子どもたちを見守ってくれました。

子どものご飯を狙います。

 最近では家族旅行に出かける機会も増え、アインと同室で宿泊することもできました。ドッグランも併設されていましたが、もうむやみに走り回らなくなったアインは、僕の後ろをついて歩いていました。アインが亡くなる直前も家族旅行に出かけました。あいにくの天気でゆっくりと散歩することは出来ませんでしたが、奇跡的にも家族最後の時間を過ごすことができました。
 6月22日の朝、庭で痙攣していたアインは、家族の前で立ち上がりました。一度は死を意識し家に運び入れましたが、外に出たがったため、なんと家族揃って短い、本当に短い散歩をしたのでした。それが最後の家族揃っての散歩でした。いつもする様におしっこをして、フラフラしながらも子どもたちにリードを引かれ、しっかりと散歩に付き合ってくれました。その後の事を考えると、どれほどに身体がしんどかったのか計り知れませんが、子どもたちには死んでいくその姿を見せないとばかりに踏ん張っている様でした。
 僕も決別の意を含めて、仕事に向かう事にしました。車に乗る前にアインを呼ぶと、やはりしっかりとその四足で立ち、近寄って来てくれました。最後に頭を撫でて「またね」と声をかけると、少し身体を痙攣させて離れて行きました。僕が、生きているアインを見たのはそれが最後です。その後、すぐに奥さんから、アインが倒れ失禁していると電話がありました。車を戻そうと思いましたが、アインは相変わらず立ち上がろうとしているらしく、人が見ている以上、楽にしてあげることが出来そうにありませんでした。奥さんに、仕事に向かう様に告げました。その後は冒頭に書いた通りです。


旅行が可能に。

 15年間は本当に長い年月です。僕が今まで生きてきた1/3の時間を共にしました。一昨年に幼少期を共にした幼なじみを無くし、共通の思い出が僕だけの持ち物となりました。ただアインとの思い出にはいつも誰かが関わっていて、僕と関わってくれた人たちはいつでもアインの存在を認識してくれていました。僕の人生のいろいろな場面にアインが居て、また家族が出来てからは家族の全ての場面にアインが居ました。ある意味、それがアインの強さであり優しさ何だと感じました。生きていた時と同様に、アインの思い出を共有し、その存在を思い出す事ができるのです。
 アイン、という意味には2つの意味があります。一つは当時大好きだったアニメ、カウボーイビバップの天才犬アインから。もう一つは片方の目が青く、オッドアイだったために、一つ、という意味を。実は僕のはてなIDにもアインがいます。


青い目。

 逝った今、アインはやはり唯一だったな、と感じています。栃木の出会いから怒った姿を一度も見たことがありません。子どもたちに何をされても上手く逃げまわり、手を出されればペロペロと舐め、病院で大嫌いな注射をされても反撃することなく、ただただ必死に嫌がるだけでした。犬は噛み付くもの、と僕は子どもの頃から教わっていましたが、僕の子どもたちはきっと、犬は絶対に噛み付かないものと認識しているに違いありません。小さいながらに、素晴らしいホスピタリティを持った唯一の犬。今まで僕を見守ってくれてありがとう。君が居てくれて、僕は今の家族に辿り着きました。君のお陰で、僕は家族を持つことができました。帰る場所を見失っていた時に、君はいつでも僕のホームとして待っていてくれました。今でも家に帰ると、君が寝そべっていた庭を覗いてしまいますが、もうそこには居ません。幼なじみと一緒にあちらの世界で待っているかもしれませんが、また会える時を楽しみに。
 今まで本当にありがとう。またね、アイン。


アインとの写真は以外と少なく。